〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/05/26 (土) 明治政府のつらさ・軍人勅諭 (三)

太政官政府が浮上していて、怨嗟の声が盛んでした。先ず職を奪われた人たちが満ち満ちていた。政府は今まで攘夷、攘夷といって外国人のことを獣のしょうに言っていたのに、掌を返して文明開化だ、開国だと言い出した。これが理解できない人が多かった。
この得体の知れない革命政権に対してですね、みんな恨みを持っています。思想的に、政治的に、あるいは経済的に恨みを持っています。しかも、いちばん怒っていたのは旧薩摩藩士でありました。
大久保一人の権威というものは、たかが知れたものであります。
権威がこの案を採用するんだ。おれが採用するのではない。これが、明治太政官政府の命の綱でした。
これを天皇制と言ってしまえば、もう身も蓋もない話なのです。もう少し切羽詰ったはなしですね。もし皆さんが明治維新を肯定するとしたら、このメカニズムは、何と言いましょうか、暖かく見てやらなければ仕方ありません。
たとえば福沢諭吉は、あのまま幕府をフランス風の体制、ナポレオン三世のような体制にして近代化を図るという考えを持っていたようですね。
薩長なんて尊皇攘夷ばかり考えている、要するにテロリストたちだと思っていた。しかし案に相違して幕府はつぶれ、明治政府は開国に転換した。
ところが、ここで西郷と大久保の道は分かれてしまいます。
明治政府を守っていた薩長土肥のうち、一番強い薩摩藩の兵隊の殆どが西郷と一緒に国へ帰ってしまった。つまり、諸国の士族の不平というものと連動したわけであります。
もっとも複雑な理由はありますが、簡単に言えば、薩摩の連中は、こう思っていました。
「新政府、何するものぞ」
おれたちが政府をつくったんだ。だから、もう一度おれたちは薩摩に帰り、薩摩の士分というものを鍛え直す。あるいは久光とも仲良くして、その大軍を率いて、もう一度東京政府をやっつけるぞと、これは桐野利秋 (1838〜77) 以下、西郷の下にいた若い人たちに気分でした。
西郷その人は、いくら考えても、明治十年 (1877) の西南戦争を始める気はなかったと思いますが、結局担がれてしまった。
西郷の薩摩は明治十年、大久保の東京と決戦します。もっとも、力自慢の薩摩軍は、最初の段階の熊本攻めでつぶれてしまいます。意外にも新政府、百姓上がりの鎮台兵は強かったわけであります。
士族の保存という強いエネルギーはあるものの、さほどの革命理論もなくて爆発したのが西南戦争でした。佐賀、長州など諸国の不平士族も同じように立ち上がった。新政府としては鎮台兵を熊本城に籠めておいて、一所懸命防いでですね、やっとのことで防ぎきった。

『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ