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2007/05/24 (木) 明治政府のつらさ・軍人勅諭 (二)

この複雑な政治情勢の中で、明治維新の太政官政府における薩摩閥は成立していて、その頂点に大久保が立ち、西郷は軍隊を握っていた。
もっとも軍隊といっても、近代的なものではありません。要は薩摩藩の軍隊が東京に駐屯していて、長州兵もいるし土佐兵もいますが、主力は薩摩兵です。その頂点の西郷は日本の最初の陸軍大将でした。当時一人きりしかいない陸軍大将であります。
明治維新は大革命です。廃藩置県によって藩は消え、お城はお国のものになり、たいへんな革命が起ったわけです。
つまり、将軍という偉い人を倒し、あるいは自分が属している藩の殿様を乗り越えて、一下級武士である大久保、そして西郷が頂点に立った。
久光が怒るはずです。
明治政府は非常につらい政府でした。
革命政府でありながら、あらゆるところから罵りを受け、恨まれていた。
薩摩藩や長州藩も含め、日本全国の士族という士族で明治政府を喜んでいる者は一人も居なかった。
薩摩人でも明治政府を構成している官員になった人はいいのですが、殆どは藩に残っているわけです。
そしていつの間にか、大久保をはじめとする連中が、官員として偉い顔をして命令する。この国に君臨し始める。久光の論理によれば、殿様を裏切った政府であります。
江戸時代、大坂の町人は日本の金融機関の役割を果たしてきたのですが、それが明治維新成立とともに、殆どが倒れました。
わずかに鴻池が半死半生の状態で残った程度でしょう。あとは全部倒れました。大名に貸していた金が、全部棒引きになったものですからたまりません。ですから、この点でもやはり革命ですね。
革命なんですが、住民の歓呼の中で革命が出来上がるべきところが、そうはなりませんでした。侍にも町人にも評判の悪い政権です。ですから明治政府はその成立時点において、ほかに権威を求めざるを得なかった政権でした。
大久保という人はですね、太政官の頂点に立っております。色々な人が色々な安を持ってきます。
たとえば前島秘 (マエジマヒソカ) (1835〜1919) が、
「西洋のように郵便局をつくらなければいけません。郵便制度を設けなかればいけません」
と言ったとします。するとじっと考える。無口で殆ど笑ったことのない人で、ものをゆっくり言うそうですね。大久保利通の家系はものをゆっくり話すという話を聞いたことがあります。
郵便局のように、いい案がありますと、
「それはご評定にかけましょう」
と、敬語を必ず使います。
つまり、会議にかけましょうという意味ですが、何か大久保さんの後ろに偉い人がいる感じですね。
いい案だからひとつ考えておきましょうという意味ではなく、おそらくお考えになるでしょう、採用になるでしょうという意味です。
何か背後に見えないものがあって、それに大久保が仕えている。そのご意向を言うが如くに言う癖がありました。
大久保に接した人たちの話をずっと読んでみますと、大久保の政策決定の時の言葉というのは、だいたいこうだったようですね。俺はこう思うのだということは一切言わずに、きっとこれはご評定にかけましょうなどと言った。
そうでも言わなければ、悪いと思ったのかもしれません。自分が、まあ久光の言葉で言うと、裏切った諸大名、まして薩摩藩主に対して悪いわけです。
大久保は薩摩藩主、旧大名、そしてわれわれ百姓、町人に至るまで命令する立場にありましたが、二百何十人の旧大名、そして特に薩摩藩の殿様に対する配慮、つまり会釈の仕方が大変でした。
将軍の権威を用いればいいのですが、将軍は追っ払っておりますから、やはり、天皇ということになった。これが、明治維新成立の最も重要な鍵になると思います。

『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ