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2007/05/24 (木) 明治政府のつらさ・軍人勅諭 (一)

昭和元年から昭和二十年の敗戦までについて、私は魔法にかけられた時代だと繰り返し申し上げてきました。
特に昭和十年から二十年までの十年は魔法のような時代だと考えていまして、この十年というものは、日本のいかなる時代にも似ていませんね。
例えばですね、江戸時代の井原西鶴 (1642〜93) とならお話できそうですが、東条英機 (1884〜1948) だったら話が通じるでしょうか。
松尾芭蕉 (1644〜94) だったら話せるでしょう。あるいは紫式部や清少納言ともお話が出来そうですが、昭和十年から二十年までに活躍した人たち、日本の運命を決めた偉い人たち、あるいは決めることに参加したり、熱狂した人たちとは話せるかどうか。
何か違う国の人のような感じですね。この時代をとく鍵が一帯何処にあるのか、私が考えているプロセスを聞いていただきたいと思います。プロセスというような上等なものではないですね。やはり雑談です。

今日は、日本語のひとつのサンプルとして、 「陸海軍人に賜はりたる勅諭」 、いわゆる軍人勅諭についてお話をしたいと思います。
といっても、これをきなり持って来てもですね、いまの人には何のことかわからないでしょう。あるいは嫌悪感を持つ人がいるかも知れませんが、お聞きください。
私も軍人であった時期が二年間ありますから、軍人勅諭というものを暗唱させられました。
そうそう、思い出しました。私が中学の初めごろですか、大阪師団に後宮中尉という方がいらっしゃいました。
中尉や少尉は週番士官になります。
週番士官になりますと、朝の点呼の時に軍人勅諭を読む。全部読むと長くかかりますから、五カ条という縮めたものを読む。五カ条は五つの徳目を挙げてあるのですね。
ここにコピーがあるから言えるのですが、軍人は武勇が一番大事なんですけれど、武勇は三番目なんです。先ず第一に忠節、次は礼儀、それから武勇、次は信義、それから質素、この五つの項目であります。
週番士官はこれを読み上げればいいのですが、後宮中尉は一つ読み違えてしまい、切腹して亡くなりました。
後宮さんという外務省の偉い方がいらっしゃいましたね。韓国大使をされた方ですが、あの方のご兄弟だろうと思います。そしてお父さんは後宮大将という有名な軍人だったと思います。
まじめな方だったのでしょうね。軍人の息子さんだけに責任を感じられたのでしょうか。
私は週番士官になったときに毎回読み違えていました。命がいくらあっても足りないなあと思ったことがあります。たった五カ条を読むのに、あがっているものですから読み違うのです。

軍人勅諭が出来る前の事情からお話ししていきます。
大久保利通 (1830〜78) という人は偉い人でしたね。日本の政治家の中で、明治以後の人でやはり最大の人は大久保利通ですね。これは文句のないところだろうと思います。
明治維新を起こした人々は無数にいました。しかし、最後に政府を作り、その政府を主宰した人は大久保利通でした。そして明治維新の軍事面、つまり革命戦の軍事面で大きな存在だったのは西郷隆盛 (1827〜77) でした。
この二人は、あの明治維新の中で最も高い頂点に立つ人であり、二人の関係は長く深いものがありました。
鹿児島市には甲突川 (コウツキカワ) という川が流れていまして、ちょっとこの川に水が溢れますと水浸しになるような低い地面に、下級の武士たちが住んでいる団地のような所がありました。碁盤の目のように地面を仕切った八十戸ほどの町があり、二人ともそこに生まれたわけです。
大久保のお父さんは藩の政治犯でした。ちょっと政治的な事件にかかわってしまい、殆どお役料というものはおりてこなかった為に、ご飯が食べられない状態にあった。
西郷はソロバンを習いました。
そのころお役につくのに一番手っ取り早いのは、ソロバンを習うことでした。侍はソロバンを習うことを喜びませんが、西郷の家は子供も多いですから、そんなことは言ってはいられない。
西郷はソロバンが上手かったそうですね。役所でソロバンをはじいて、お役料を貰う。お父さんも働いていましたから、親子二人で役料が入るようになってからは、ご飯が食べやすくなりました。ですから、いつもご飯時になると大久保がやって来ました。西郷よりはちょっと年下なのですが、黙って飯びつを引き寄せて飯を食ったそうであります。
ですから、西郷と大久保は大変な仲ですね。幕末の革命期になりますと、大久保は京都にあって非常に政治的な動きをして、西郷は鹿児島にあって人の心をまとめている。これはちょうど野球で言うと、大久保がピッチャーになって西郷がキャッチャーの関係ですね。
大久保が京都はこうだ、そろそろ京都に上った方がいいとか、そういう情報を届けた。逆に西郷がピッチャーになるときは、必ず大久保がキャッチャーになりました。
薩摩は雄藩ですから、明治維新のリーダーシップを長州と並んでとりました。
人材は長州にもいましたが、長州の出身者はどこか書生っぽいのです。その点、薩摩は人の大将になるような感じの人材が多うございました。ですから、大久保はやはり政府の偉い人になった。
ところがこれをよく思わない人もいました。
薩摩の殿様で島津久光 (1817〜87) という人がいるのですが、この人の側から見れば、明らかに明治維新は裏切りでした。
久光は明治維新など起こそうとは思っていなかった。しかし、色々なことを言われたのでしょう。特に大久保が久光にくっついていた時期がありまして、そもころに大久保が何を言ったかはわかりませんが、久光はひょっとしたら将軍になるつもりだったかもしれませんね。
これは言い過ぎかもしれませんが、とにかく薩摩藩の公式の軍隊を動かし、久光にとっては意外にも徳川幕府を討った訳であります。
何かがあったのでしょう。久光という人は保守的な人でしたから、本来は倒幕などということを考える人ではなかったと思います。
ですから、明治維新後も、久光はこの大久保と西郷を憎み続けました。死ぬまで憎み続けた人であります。
「藩を滅ぼした奴等だ」 と。
明治新政府は久光に対して官位を与えたり、色々なことをして、ご機嫌をとろうとしたのですが、久光は頑固でした。中国の唐の歴史で、玄宗皇帝 (685〜762) を裏切る軍人で安禄山 (705〜57) という者がいました。安禄山もよく太った人です。久光は西郷のことを安禄山だと絶えず言っていました。そして大久保も憎んでいました。

『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ