〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/19 (木) 腹を切ること S

それを希典が聞いたときに、事態が変わった。
それまで希典は静子を道連れにするつもりはなかった。そのkとは昨夜書いた遺言状でも明らかであろう。遺言状の宛名の中に静子を含めているし、その内容には静子の余生の住居のことまで触れておいた。
希典にすればいかに妻であるとはいえ、その生命のことまでは強制し難かったに違いない。が、いまそのことが一変した。静子はあとで死ぬと言う。このことで希典には今生における懸念がことごとく無くなった。
彼は先々月、選定の死と共に死を決意したあとも静子のことが気がかりであった。二児を非業に喪い、さらに夫を非業に喪うというほどの打撃を静子にあたえたくなかったし、その老後の寂寥を思うと、むしろ死を選ばせた方がいいとも思っていた。
このことは希典の論理であり、希典の論理は常にそうであった。この論理が希典において正しい以上、彼はいま一歩を進めることが出来た。
「それならいっそ、いまわしと共に死ねばどうか」
希典の脳裡にはすでに順が浮んだ。自分よりもむしろ静子こそ先に死ぬ方がいい、なぜならば静子が女である以上、自害の仕損じがあるかもしれず、その場合は自分がその完結へ介添えしてやることができる。
さらに静子のいうように後日死ぬ、というのはよくない。それこそ自殺を仕ぞこねて恥を残すかもしれず、さらに人々の制止や人々の監視をうけて思わぬ苦しみを味あわねばならぬかもしれない。
が、このことには静子は驚いた。あとわずか十五分で死ねということであった。
「整理が」
と静子は言ったであろう。
----- 家財の整理など、他の者がする。
と、希典は言ったであろう。しかし家財の整理はそうであっても、婦人のことであり、身のまわりには様々なことがある。たとえば家の中の鍵の隠し場所なども人々に言遺しておかねばならず、身辺のもの物品書類なども焼くべきものは焼かねばならぬであろう。さらにたとえば辞世の歌などもそうであり、いまから十五分の間にそれを作れと言われても作れるものではない。
しかしこの辞世の歌については、結局は静子は見事なものを残した。

「いでまして 帰ります日の なしと聞く 今日のみゆきに あふぞ悲しき」

というものであった。
いかにも希典の調べの癖に似ている。希典がいくつかの辞世の草稿をもっていたとすれば、それを静子の為に譲ったのかとも思われるが、しかしあるいはそうでなく、静子が即座に作ったのかもしれなかった。それがいずれであるにせよ、そのことは死のための瑣末な形式に過ぎないであろう。
ただ、静子は当惑した。当惑のあまり叫んだ声が、階下にまで聞えた。

----- 今夜だけは。

という静子の短い叫びが階上からふってきて、階下にいた彼女の次姉馬場サダ子らの息を詰めさせた。
そのあとすぐ癇の籠った声が二、三聞えたが意味は聞き取れず、すぐ静かになった。
そのあと数分経過した。階下の人々は沈黙をつづけた。
階上でふたたび気配が聞えた。重い石を畳の上に落としたような、そういう響きであった。
馬場サダ子は、人の死を直感した。サダ子と下婢ひとりが階段をのぼった。
鍵穴からサダ子が叫び、希典の名を呼び、静子に罪があるなら自分が幾重にも詫びます、と泣きつつ言った。
血のにおいだ廊下にまで流れていた。やがて希典の声が室内から聞え、意味はさだかではなかったが、御免なさい、と言ったようであった。


警視庁警察医による死体検案始末書から推察すれば、静子はその死のために短刀を用い、最初三度その胸を刺したようであった。
一度は胸骨に達し、それが遮った。二度目は右肺にまで刺入したが、これでも死にきれなかったのであろう、三度目の右肋骨弓付近の傷はすでに力が尽きはじめていたのかよほど浅かった。希典が手伝わざるを得なかったであろう。
状況を想像すれば希典は畳の上に、短刀をコブシでもって逆に植え、それへ静子の体をかぶせ、切先を左胸部にあてて力をくわえた。これが致命傷になった。刃は心臓右室をつらぬき、しかも背の骨にあたって短刀の切先が虧けていた。
希典は静子の姿をつくろい、そのあと軍服のボタンをはずし、腹をくつろげた。軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆に擬し、やがて左腹に突き立て、臍もやや上方を経て右へひきまさし、いったんその刃を抜き、第一創と交叉するよう十字に切りさげ、さらにそれを右上方へはねあげた。
作法でいう十文字腹であった。しかしこれのみでは死ねず、本来ならば絶命のために介錯が必要であった。希典はそれを独力でやらねばならなかった。
彼は軍服のボタンをことごとくかけて服装をつくろったあと、軍刀のつかを畳の上にあて、刃は両手でもってささえ、上体を倒すことによって咽喉をつらぬき、左頚動脈と器官を切断することによってその死を一瞬で完結させている。

希典とその妻の殉死の報は、それから一時間後には、大葬拝観のために堵列している群集の間に広がったらしい。
すぐ世界に広がった。希典はすでに旅順要塞の攻略者としてこの当時の日本人としては他国に対する知名度が最も高く、その死は文明世界の殆どの国の新聞に掲載された。
その論評のことごとくが日本の貴族の演じた中世的な死の様式に驚きつつも、その殆どが激しく賞讃した。
すでにヨーロッパにおいてはどの国でも王室の尊厳と貴族の権威が失われつつあり、その典雅で剛健な秩序を哀惜する者はこの希典の死を世界的な感覚でとらえ、奇蹟の現象として感動した。
彼の思想の過去の系譜のなかにあるこの稿の冒頭の人々が、すべてその行動よりもその劇的な死によってその同時代人や後世に思想的衝撃をあたえたかのように彼の死もその劇的な時宜を得た。

生前の希典は、最後まで不遇感を持ちつづけていたらしい。彼はよく雑談の中で電車の座席の話をした。

電車に乗っていると、すわろうと思って、そのつもりで鵜の目鷹の目で座席を狙って入ってくる。ところがそういう者はすわれないで、ふらりと入ってきた者が席を取ってしまう。これが世の中の運不運というものだ。
希典自身、自分の一生を暗い不遇なものとして感じていたらしいが、これはどうであろう。
『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ