〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/18 (水) 腹を切ること Q

当日になった。
大葬の日であり、この日は夫妻そろって参内せねばならない。静子はこの日の未明、二階の自室で起きた時、廊下を隔てた希典の居室ではすでに物音がしていた。 すぜに起きたのかと思った。
静子には彼女個人としてこの日の大仕事があった。宮中における第一種喪装というあのこまごまと煩わしい衣装の着付けをしなければならなかったのである。着付けだけにおそらく三時間を要するであろう。
この早朝、希典は入浴した。いつもならば希典は入浴の時書生を呼び、書生に背を流させた。しかしこの時はいつになく静子を呼び、彼女に背を流させた。静子はそのあと自分のための湯をつかい、やがて彼女自身の居間に入ってあの煩瑣な衣装をつけはじめた。
午前七時過ぎ、写真師が来た。前夜、人を派して申し付けてあった者で、近所の写真師であった。希典は自分の像を写真にすることが好きであり、壮年の頃から出入りの者を決めてあったが、前夜、急なことでもあり、近所の者をこの朝呼んだ。
午前八時ごろ、静子の着付けが終わり、希典の希望で夫婦揃った写真を撮ることにした。希典は陸軍大将の礼服をし、勲章を佩用した。場所は洋式応接室を選んだ。
「ケフノ写真ハ自然ナル姿勢ガヨカラウ」
と、希典は言い、彼は椅子に腰をおろし、手袋を卓上に置き、新聞紙をとりあげ、老眼鏡をかけるというポーズをとった。希典は声をあげて新聞を読み始めた。彼はどういう刊行物を読む場合にも声をあげるのが癖であった。
静子も部屋に入り、歩みより、第一種喪装のまま希典の右側に立った。写真師は二度マグネシウムを焚き、撮影を終えた。ついで希典は玄関の前庭に降り、そこで帽子をかぶり、剣を杖つき、単独の写真を撮った。静子もそれにならい、単独の写真を撮った。

おわると、ちょうど参内のために呼んであった自動車が来た。夫妻はそれに乗るべく、玄関を出た。門を出るまでの間、希典は無言で静子の襟に手をのばし、そこについていた糸くずをとってやった。二人は車に乗った。
午前九時に殯宮に参拝し、静子はすぐに帰宅した希典もほどなく帰った。
正午は親類の者もまじえ、昼食をとった。食事は、自家で打った蕎麦であった。希典はここ数年、ほとんど蕎麦を主食にしていた。客に 「ご馳走する」 と予告して招待した時も、出したのは蕎麦だけであり、客はそのために驚いた。希典はこの蕎麦という食い物にさえ、彼自身のストイシズムとそれへの感動と他人への訓戒をこもらせていた。
彼の死後、彼の崇敬者が激増するが、その殆どがこの一点に感動した。伯爵といえば旧幕時代の大名を連想する時代であり、むしろ庶民にとってはそれ以上の華麗な存在であった。しの伯爵が、庶民も避けるような粗食をしているということについての感動は、のちの時代の者には想像のつきがたいものであろう、
彼ら崇敬者たちはこれを乃木式食事と呼んだ。しかし希典の現実の生理では蕎麦程度のものしか欲しないのは当然であったであろう。

この食事中、静子が、
「桃山の御陵までお供なさるのでございましょうね」
と言った。家族は皆そのようにすることになっているし、当然希典ならばそうあらねばならぬであろう。
静子がこのことを質問したのは、はっきりと希典の意中を探る目的のためであった。希典があるいはこの期に自殺するのではないかということは、静子の想像においては十のうち七つ八つまで疑い難いものになりはじめていた。自殺するとなればそれはいつなのか。あるいは存外、自殺などは自分の思い過ごしに過ぎないのではないか、などということを、その質問の中に籠めた。
ところが希典の不思議さは、この期になってもこの企てを韜晦しようとしないことであった。彼は言った。
「今日参内した時、またしてもみながわしを見て、どうも顔色がすぐれぬ、どこか悪いのではないか、というのだが、それほどすぐれぬなら桃山まではとてもお供はおぼつかない。このことだけは残念ながら思いとどまることにした」
「いらっしゃらぬわかでございますね」
と、静子は念を押した。ひとの言葉に念を押す習慣は静子にはなかったのだが、この時だけは今一度反応を確かめたかった。
「行かぬ」
希典は顔をあげてそう言い、この場合には不必要なほどに強い視線で静子を見つめた。
まだお前は覚らぬのかと言っているようであり、念を押すことをたしなめたいるだけのようでもあった。
静子は迷った。
「では、明日はどういうご予定でございます」
明日はもう宮中には殯宮がない。希典の日課がなくなるのである。希典はこの質問には答えなかった。明日はすでに彼はこの世に存在していない。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ