翌十二日になった。彼がその死を予定している前日に当っている。 この日も彼はその日課である参内のために出かけた。
希典が出かけた後、静子はひどく不安になった。この前夜、彼女は夢見が悪く、目がさめるとうなされている自分に気づいた。夢というのはこの野木家に弔問客がひきもきらずに来ているというもので、ただ事ではなかった。彼女はいたまれなくなり、ついに家の者にその旨を打ち明け、易占のもとに走らせた。
易占家はその夢を卜し、これは容易ならざる事でございますが、ご主人の身の上に危険が迫っております、それもここ二、三日のうちであり、十分にご注意なさらねばなりませぬ、という。
静子は、この種のことを信じた。当然、この卜占を信じた。彼女が希典の挙動について自殺の懸念からそれを見はじめたのは、希典の死ぬこの前日からであった。
この日希典は、朝は参内し、昼は殯宮に礼拝し、夜は殯宮に奉侍した。殯宮奉侍は、普通にいう通夜のことであった。
その殯宮奉侍から退出し、希典が赤坂の自宅に帰ったのは、夜の十一時すぎである。
この夜、希典は夜食のそばを食い、親類の者としばらく語り、そのあと二階自室に入り、内側から鍵をかけた。
既に零時をまわっているであろう。この時刻から彼は遺言を書くことを始めた。法的に正式な遺言は一通であったが、ほうぼうへの遺書は彼の心積りでは七、八通を必要とした。それが終る頃には夜が白むであろう。夜が明ければ、先帝の大葬の日である。
彼は遺言書を書き始めた。彼の最も濃い四人の身内に対するものであった。妻静子の実家の当主湯地定基、彼の末弟の大館集作、彼の宗家の当主である正木正之、それに彼の妻静子を連記することをもって宛名とした。
内容は十カ条にわけ、条々にいちいち番号を付け、冒頭には 「遺言条々」 と書いた。
その第一条は、
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