〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/16 (月) 腹を切ること P

翌十二日になった。彼がその死を予定している前日に当っている。 この日も彼はその日課である参内のために出かけた。
希典が出かけた後、静子はひどく不安になった。この前夜、彼女は夢見が悪く、目がさめるとうなされている自分に気づいた。夢というのはこの野木家に弔問客がひきもきらずに来ているというもので、ただ事ではなかった。彼女はいたまれなくなり、ついに家の者にその旨を打ち明け、易占のもとに走らせた。
易占家はその夢を卜し、これは容易ならざる事でございますが、ご主人の身の上に危険が迫っております、それもここ二、三日のうちであり、十分にご注意なさらねばなりませぬ、という。
静子は、この種のことを信じた。当然、この卜占を信じた。彼女が希典の挙動について自殺の懸念からそれを見はじめたのは、希典の死ぬこの前日からであった。
この日希典は、朝は参内し、昼は殯宮に礼拝し、夜は殯宮に奉侍した。殯宮奉侍は、普通にいう通夜のことであった。
その殯宮奉侍から退出し、希典が赤坂の自宅に帰ったのは、夜の十一時すぎである。

この夜、希典は夜食のそばを食い、親類の者としばらく語り、そのあと二階自室に入り、内側から鍵をかけた。
既に零時をまわっているであろう。この時刻から彼は遺言を書くことを始めた。法的に正式な遺言は一通であったが、ほうぼうへの遺書は彼の心積りでは七、八通を必要とした。それが終る頃には夜が白むであろう。夜が明ければ、先帝の大葬の日である。
彼は遺言書を書き始めた。彼の最も濃い四人の身内に対するものであった。妻静子の実家の当主湯地定基、彼の末弟の大館集作、彼の宗家の当主である正木正之、それに彼の妻静子を連記することをもって宛名とした。
内容は十カ条にわけ、条々にいちいち番号を付け、冒頭には 「遺言条々」 と書いた。
その第一条は、

自分此度、御跡ヲ追ヒ奉リ
自殺候段、恐入候儀、
其罪ハ不軽存候
と書いた。
まず企図と決心を述べるのは作戦文章の原則であり、希典は自然それを準った。つづいて理由を書いた。
理由は、
「明治十年の役に軍旗を失ひ、その後死処を得たく心がけ候もその機を得ず、皇恩の厚きに浴し、今日まで過分のご優遇をかうむり、おひおひ老衰、もはやお役に立ち候ときも余日無く候をりから、このたびの御大変、なんともおそれいり候次第。ここに覚悟相さだめ候ことに候」
で終っている。
それ以外に、理由は書かれていない。要するに二十九歳の時軍旗を薩軍に奪われたことについての自責のみが唯一に理由になっており、この一文があるがために彼の殉死は内外を驚倒させた。信じられぬほどの責任感の強さであり、この一文は軍人の責任という徳目の好例として米国の陸軍士官学校の教科書にも採録され、今も使われているという。
希典自身も自分の死の理由をそのように信じた。というより、詩人としての希典は、希典は常にそうだが自分を詩中の人物として置く時、このような自分であることが最もその詩心を昂揚させるのであろう。
彼は近代文学の徒ではないために自分の心理の分析を必要とせず、ただいっぺんの詩情と詩の一句で自分を整理することのできる人であった。
彼の少年期にはそのような人物が無数にいた。しかしその時代が維新をもって終わり、その後国家と社会が近代化されて四十五年を経たが、彼のみはその前時代人の美的精神を頑なに守り、化石のように存在させつづけた。

第二条からは、実際的な事柄である。乃木伯爵家は断絶する事。この赤坂新板町の屋敷は市か区に寄付する事。遺品わけはかっての副官である塚田大佐に任せる事。御下賜品は学習院に寄附、書籍類は学習院と長府図書館に寄附する事。自分の遺骨はしかるべき医学校に寄附する事。墓下には毛髪と爪歯を収容するだけで十分である事。
さらに資財分与などについては静子から相談つかまつるであろう。自分の死後、静子の居宅については静子に任せるが、静子もおいおい老境に入るため石林の別荘は辺鄙でありすぎ、病気などの時に困るであろう。このため石林の家土地は弟集作にゆずる。静子は中野の家に住むがよかろうかと思うが、いずれにせよ住まいは静子自身のことであるゆえ、そのことは静子に任せたい。静子が決めるであろう。
『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ