〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/16 (月) 腹を切ること O

希典は参内した。
午前七時である。彼は控え室でわずかな時間待ち、ほどなく廊下へ出、拝謁の部屋に案内された。部屋は和風で、畳の上に絨毯が敷かれ、その上にテーブルが置かれている。しかし椅子は置かれていなかった。
希典は、立ったまま待った。やがて皇太子裕仁親王、それに淳宮、光宮が現れ、三人一列に横にならばれた。
波多野太夫、村木武官長は別室に下がり、御教育掛の土屋子爵と女官二人が部屋に残った。
希典は、拝礼した。
親王たちは答礼した。裕仁新王は学習院の制服に喪章をつけていた。
「まことに恐れ入りますが」
と、希典は御教育掛に言った。お人払いが願わしゅうございます。というのである。このことは異例であり、恩教育掛土屋子爵はちょっと戸惑ったが、しかしすぐに決断し、みなに目配せをした。一同、廊下へ出た。廊下は一間の畳敷きであった。
----- そのお障子を。
とまで希典は要求した。部屋と廊下との間に厚い唐紙障子がある。それを締めてもらいたいと言うのである。女官はおだやかに一礼し、それを締めた。このため、部屋は三人の皇子と希典だけになった。
希典は、卓子 (テーブル) へ進み、その上に風呂敷包みをのせ、それを解き、中のものを取り出し、それをちょっと頂き、すぐ卓上にのせた。書物であった。希典はその書物を三皇子にむかって広げた。
「この書物は、 『中朝事実』 と申しまする」
といった。この書は希典の手で造本したものであり、さらに彼自身の手で所々に朱註を入れてあった。
「むかし、山鹿素行先生と申される人が」
と、この書物の由来と著者についての概要を説明した。この説明だけで五十分以上の時間を要した。さらに彼らが気づいた時には、希典はこの書物の所々を読み上げ、その内容について講義をし始めているところであった。
漢文と漢語を交えての話は十二歳の兄宮でも無理であったであろう。まして二人の幼童にとってはこの老人が何を喋っているのか、少しもわからなかった。
二人の幼童は、それでもその後三十分ばかり立っていたが、遂にたまりかね、先ず淳宮が駈けだした。光宮がその後を追った。彼らは重い唐紙障子を開け、廊下へ飛び出した。このため、廊下で控えている人々の目に、中の様子がよく見えた。
----- 何事が行われているのであろう。
と、誰しもが息を詰めたほどにそれはただ事でない風景であった。希典の半顔が濡れていた。顔を真っ直ぐにあげたまま涙がとどめもなくくだっており、しかも声は歇むことがなかった。
裕仁親王はすでに十二歳であるだけにこの場から逃げ出すことはせず、躾られたとおりの姿勢で立ちつづけていた。

希典の思想と精神は常に劇的なものを指向し、その行動と挙動は自然劇的なものを構成しがちであったが、その生涯においてこの時ほどそうであったことはないであろう。
彼は 「中朝事実」 を演述しつつも帝王としての心掛けをこの新王に説いていた。
希典には彼を怯えさせている危機感があり、それはこの国家の行く末のことであった。
日露役後瀰漫 (ビマン) しはじめた新しい文明と思潮の中でこの国は崩壊し去るのではないかということであり、このことは人にも語っていた。
国民の間で国家意識がなくなってきたのではないか、という質問を受けた時、彼はそれを認めるのが怖いというふうにはげしくかぶりをふった。
国民は立派である、と言いかえた、しかしそこが抜けてしまった、と最後の言った。底とは忠君思想であろう。
愛国であってもならない。この点について彼の思想を、十七世紀の政治思想家である山鹿素行が代弁してくれている。
「それ、天下の本は国家にあり、国家の本は民にあり、民の本は君にあり」 と、素行は 「中朝事実」 のなかで説いた。
「民にあり」 というとことまでは儒教思想であったが、 「民の本は君 (天子) というところの、希典の言う 「底」 のところで素行は時の政権から忌避された。素行はこの思想の為に暗澹とした後半生を送ったが、希典は逆にこの思想が時代思想であった時に成人し、栄爵を得た。
その思想が国民の中から衰退しようという兆しの見えるときに希典はその晩年を迎えた。
今死のうとするとき、その憂心は誰に語り残すべきであろう。彼は既に軍部から慇懃な形で阻害されていた。学習院でも必ずしも生徒の間で彼は魅力ある教育者としては映っておらず、著述して世に問うにも、彼は世を納得させるだけの論理の力を持っていなかった。
彼に残された警世の手段は、死であった。彼は自分のおよそ中世的な殉死という死がどのような警世的効果をもつかを、陽明学の伝統的発想を身につけているだけにこのことのみは十分に算測することが出来た。
しかし彼の今の涕涙はそれではなかった。すでに老残であることを知っているからは、誰に相手にされなくなってもこの眼前にいる少年にだけは言い残したかった。
この少年は将来数十年後にはこの国の帝になるはずであり、その点で他の者とは違っていた。さらにこの少年だけは他の者と違い、自分の言うことを素直に聞いてくれる少年であり、現に今も聴いてくれていた。
この少年の律義さを希典は常々傾仰していたが、なんという美質であろう。少年はじっと立ちつづけていた。もっとも少年はその美質をもって立姿の姿勢をとっているのであり、希典の演述を理解しているかどうかについては、じつのところ希典にとってもよくわからなかったであろう。
「この 『中朝事実』 は」
と、希典は卓上のものを両掌でさし示しつつ、
あるいは殿下にとって訓読みがまだ無理かと存じますルガ、ゆくゆく御成人あそばされ、文字に明るくあなり遊ばしたあかつきには必ずお読み下さいますよう、このように手写し、献上つかまつる次第でござりまする。」
と希典は言った。
希典の講述は終った。このとき皇儲の少年は、不審げに首をかしげた。
「院長閣下は」
といった。彼は乃木と呼ばずこのような敬語をつけて呼ぶようにその祖父の帝の指示で教えられていた。
「あなたは、どこかへ、行ってしまうのか」
少年はそう質問せざるを得ないほど、希典の様子に異様なものを感じたのであろう。この声はひどく甲高かったために、廊下にいる女官達の耳にまではっきり聞えた。
「いいえ」
と、それをあわてて否定した希典の声も、廊下まで洩れた。
「乃木はどこにも参りませぬ。ただ英国のコンノート殿下の接伴員を仰せ付けられておりますので、このところしばらくの間・・・・・」
とまで言い、あとは言葉を消した。しばらくの間乃木は参殿できませぬ。という言葉を省いたのであろう。
希典は退出した。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ