〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/15 (日) 腹を切ること N

九月十一日は、彼の死からさかのぼって前前日であった。この日午前六時、彼は赤坂の自宅を出て皇居にむかった。馬を用いず、わざわざ俥を用い、膝の上に風呂敷包みを置いていた。厳密には膝の上でなく、膝から三寸ばかり浮かせ、両掌に載せていた。その様子から察して、よほど大事な品物であるとみられた。
静子は、別に不審を抱かなかった。朝の参内はかれのとって恒例のことなのである。このころ彼の日課は朝夕に参内して先帝の殯宮 (ヒンキュウ) を拝し、しかる後二日に一度、彼にとって生徒である皇孫殿下に拝謁した。現実には皇孫と呼ばれるべきではなく、すでに帝は没し新帝の代になっている以上、新帝を中心にした呼称がふさわしいであろう。皇太子と呼ぶべきであった。しかしながら希典はこの裕仁親王をあくまでも皇孫殿下と呼びつづけた。親王はすでに十二歳になっていた。
希典はこの日の前日、退出する時、御帳簿に細字をもって、 「明朝かならず拝謁を賜りたい」 という旨のことを記入した。そのことは無論かなえられた。
このためこの日、皇孫殿下の扈従者 (コジュウシャ) たち、波多野太夫、村木武官長、桑野主事をはじめお付女官たちは早朝から勤務に就き、希典を待っていた。
----- あらたまって拝謁を乞うとは、何事だろう。
という疑念が誰の脳裡にもわだかまっていたが、しかし誰もそのことについては話題にしなかった。
その朝、希典は家を早く出すぎたようであった。御門の見える辺りでそれに気づき、俥を捨て、徒歩をもって広場を横切り、御門に入ってからしばらく時間を消すために佇立した。
近くの松を見上げ、遠くの松を眺めた。どこか詩でも作りたげな風景であったが、しかし詩のことは考えていなかった。漢詩を作るのはそれなりの集中と根気が要る作業であり、希典はここ数年ついぞ作っていない。詩を作る体力がなくなっていた。その代わり、和歌を作るようになった。しかし希典の発想、情感は和歌という形式や調べに向かないらしく、あまり上手くなかった。
何事にも好みが強烈であり、美醜で物事を決めたがるこの性癖の持ち主は、平仮名が嫌いであった。男子は片仮名を使うべし、あれは武骨でいい、と人にも言ったりしたが、和歌というものの発想は平仮名文字の感触と無縁でない以上、彼に適わなかったのであろう。
しかし漢詩を作らなくなってから、和歌を詠むことに熱心になった。ひとに添削を乞うたりもした。
彼はすでに辞世のためのものを用意していたが、その辞世は彼が得意とした漢詩でなく和歌であった。
「うつし世を 神去りましし 大君の みあと慕ひて をろがみまつる」 というものであり、しかし日が経つにつれてその下の句が気に入らなくなり、常住心にかかっていた。
ところが昨夜、ふと想を得、気持ちが落ち着いた。 「をろがみまつる」 をやめ、 「われはゆくなり」 、という方が調べもととのい、希典の気持ちにふさわしく思われた。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ