〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/12 (木) 腹を切ること K

この帝が崩御されたのは、この月三十日の午前零時四十三分であり、直接の原因は心臓麻痺であった。
この日、希典は夕刻から参内し、深夜になっても退出せず、控え室で頭を垂れていた。すでにこの時刻で控え室にいるのは希典だけであった。
帝の病室では侍医頭 (ジイノカミ) が最後の拝診をし、御臨終を侍従たちに告げた。侍従長の侯爵徳大寺実則 (サネノリ) は侍従藤波言忠を呼び、
「非公式なことではあるが、乃木にだけはそっと報らせてやるべきではないか」
と、ささやいた。
藤波は控え室へ行き、乃木の耳もとで囁いた。
乃木はこのところ体力がなく、不覚にもこの時居眠っていた。藤波は 「私について来ますよう」 とささやいた。希典は驚いて立ち上がり、藤波のあとに従おうとして何事が起こったのかをあらためて聞いた。藤波はそれを告げた。かつ手招きし、目顔で自分についてくるように、と再び言った。
希典は恐惶しつつ従った。希典に与えられた秘密の光栄は、臨終直後の帝に最後の別れをすることが出来たことであったであろう。
希典は侍従たちの黙認のうちに御病室に入り、その寝台の数歩の所まで進んだが、しかしそれ以上は足が進まず、停止した。長い佇立 (チョリツ) のあと、藤波に注意され、この部屋から去れねばならなかった。
廊下では人々が足音を殺して走りはじめていた。ほどなく総理大臣西園寺公望が参内し、発表の手続きをとった。

希典は通夜のつもりだったのであろう、控え室で、そのままの姿勢で端坐しつづけた。天が白みはじめた時刻、誰かが、
----- 年号は、大正です。
と囁いているのが聞えた。希典が愕然としたように顔をあげたのが、人々の目に多少目立った。明治が四十五年も続いたために、希典は年号が変わるという知識が、実感として遠くなっていた。
「いつから、大正ですか」
と、希典は、そこにいた宮内省役人らしい男に顔をむけ、低い声で聞いた。
男の顔は、不眠のために青ざめ、目ばかりが場所柄もなく鋭くなっていた。男はこの不意の質問に戸惑ったようであった。
「いつから、と申しましても・・・・・」
と、不得要領につぶやいた。決まっていることではないか、と言いたいようであった。帝が崩御の時間である七月三十日午前零時四十三分からであった。男はそういった。
希典はうなずき、
「すると、いまはもう大正ですね」
と、言った。
その大正元年の第一日がまだ明けきらぬ刻限、希典は宮中を退出し、待たせてあった俥に乗り、帰宅した。 彼は自邸に長くは居られなかった。すぐに衣服をあらためて参内しなければならなかった。その支度が出来るまでの間、彼はふと思い立ち、前夜来の軍服のまま玄関から降り、門へ出た。すでにどの家にも国旗が出ていた。
彼は自家の門柱を仰ぎ、そこに掲げられている 「乃木希典」 の表札をはずした。この動作があまりにもさり気なかったために、家の者の誰もが気づかなかった。
事柄は瑣末であり、瑣末でありすぎ、劇的というのにはあまりにもそれらしからぬことであったが、しかし希典はこういう瑣末な事に思いを籠めるのが好きなたちであった。
彼はこの日から大葬の日まで一ト月半ばかりを生きつづけてゆくが、しかしこの大正期には希典は少なくとも表札だけでも存在していない。

この日から、希典は宮中に設けられた殯宮 (ヒンキュウ) に参拝すべく毎日参内した。それも朝と夕の二度であった。
家人と口をきくことも、殆どなくなった。この間、彼にとって新しい行動が、一つだけはじまった。書類を整理することであった。
「なぜそのように」
と、静子が聞いたが 「諒闇中は、何もすることもない。幸い、整理をしておく」 と答えた。
静子はこの言葉を聞いてどういう想像もめぐらさなかったようであった。ただ、彼は二階自室に内側から鍵をかけ、静子にも入ることを許さなかった。この作業は、ほとんど一ト月以上続いた。
書類の整理をしていない時は、例によって 「中朝事実」 の筆写を彼はした。全巻を書写するのではなく、必要な所だけを写した。そういう作業をしていない時は、彼は階下に降りてきて来客の相手をした。
客は諒闇中であるために公務の者は稀で、おもに親類縁者の人々であった。彼はむしろ進んで親類縁者に接しようとし、時には使いをやってわざわざ呼ばせたりした。
甥に当る木彫家長谷川栄作もそのうちの一人であった。希典はこの甥に自分の彫像をつくることを命じていたが、原型が出来たあと、なかなか進まなかった。その完成を急ぐよう催促した。
彼は自分の姿を写真に撮らせたり、絵に描かせたりすることが好きであったが、彫像をつくろうとしたのは今度が最初であった。
その完成を死の前に見たかった。製作者が遅くなっている事情をいろいろ物語ると、希典はつい重大なことを言った。それでは自分の生きているうちに出来ぬということになるか、ということであった。 しかし長谷川栄作はその言葉から別な連想ができなかった。
希典の殉死は、殉死という行動がこの時代の現実からあまりにも遠かったために、身辺の誰の目にも彼が近い将来にそういう行動を用意しているとは想像できなかった。
『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ