〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/11 (水) 腹を切ること J

明治帝は、公卿なかまで仁王とあだ名された外祖父中山大納言忠能 (タダヤス) の骨柄を遺伝し、体格はいかにも頑壮であり、なみはずれて膂力 (リョリョク) が強かった。
しかし五十代のはじめのころから糖尿が持病になり、ことに日露戦争が終了した翌年、諸将が凱旋してきた前後に糖尿に加えて慢性腎臓炎を併発し、精気がめだって衰えられた。
明治四十年代は帝にとってほとんど心身爽快という日はなく、同四十五年の初夏、右の慢性病にくわえて胃腸を悪くされ、食欲なく、嗜眠 (シミン) はなはだしく、医師の診断は深刻になった。
が、外部にはさほどのようにも伝わらなかったため、希典はこの夏、学習院の子供達を連れて沼津水練場にゆく準備を整えていた。

彼は七月十九日、単独で沼津へ行くびく出発し、この日は横須賀に立ち寄り、海軍機関学校の卒業式に参列し、そのあと付近の遠縁の家で一泊し、翌朝、沼津へ向かうべく横須賀駅に入った。
軍港の町であり、当然ながらプラットホームには海軍士官が多かったが、その誰もが通常礼服を着用しているのが異様であった。式日でもなく、しかもこの日は日曜日であり、士官たちがこのようにおおぜい駅にいる事自体が普通でなかった。
(何かあったのか)
と、希典は思った。
希典は過去のどの戦場でも大事な切所にさしかかると、その場に居合わさなかったり、遅れたり、他の所へ駈け去っていたりして、どこか失策の多い運の男であった。
この時もそれに似ていた。
この日、つまり明治四十五年七月二十日の朝、日本中に新聞号外がまかれ、帝が重態におちいられたことが報ぜられた。
この発表によると、帝は昨十九日午後から尿毒症の徴候いちじるしく、すでに精神恍惚の状態にあり、今朝になってその病状はさらに悪化しているという。
日本中で、いわば希典一人がそれを知らなかった。希典のこの時の不覚は、沼津行きは今日東京を発っていいはずであるのに一日早く昨日発ち、寄らいでもの海軍機関学校卒業式に臨席し、しかもその夜は親戚の吉田庫三 (クラゾウ) 家に泊まった事であった。吉田庫三は松陰の甥で中学校の校長を奉職していた。平素さほど付き合いもないこの吉田家で希典は深更まで寝ず、寝ずに酒を飲み 「中朝事実」 について飽きることなく喋ったという。

希典の東京の家では、静子がこの号外に接して狼狽したが、しかし希典がどこに泊まっているかわからず、ほうぼうに電話した。そのうち学習院から電話がかかってきた。
「お上の御容態がこのようである以上、沼津行きは中止すべきだと思いますが、いかがいたしましょう」
というものであった。
静子はやむなく彼女自身の判断で、
「乃木はいま不在でございますが、どうぞ中止なさって下さいますよう」
と言ったが、希典の所在がわからぬではどうにもならなかった。いつもなら希典は出先を言い残して行くのが習慣であったが、この日に限っては泊まる場所さえ告げていなかった。
いずれにせよ、駅頭の希典は嬰児のごとく無邪気であった。しかし海軍士官たちの服装があまりに奇妙すぎるため、念のために近づき、彼の特徴の一つである村夫子 (ソンプウシ) のような物腰と慇懃さで、
「今日は、何かあるのですか」
と聞いた。が、海軍士官はその問いが理解できぬように希典を見つめた。彼は自分たちに接近してきたこの陸軍の将官が高名な乃木希典であることを知っていた。他の士官たちも、希典の問いが不審であったらしく、いっせいに希典のほうに目を向けた。やがて問われた士官が、
「閣下は、本当にご存知ないのでございますか」
と、念を押した。彼らは希典が、いま危篤の帝にとってどういう人物であるかも知っていた。まさかと思ったが、しかしその事実を告げた。
「それがため自分たちは急ぎ天機を奉伺すべくこのように汽車を待っているところでございます」
というと、希典の顔は誰の目にもわかるほどに青ざめた。

停止した機械のように希典はしばらく無表情でいたが、やがてゆるゆると動きはじめた。
希典は沼津行きの切符を捨てねばならなかった。東京行きの切符に買い換えた。ほどなく車中の人になった。
空いた席に腰をかけたとき、希典は醜いほどの猫背になり、顔を伏せ、動かなくなった。
もう狼狽が静まり、暗い傷心がはじまった。しかしながら汽車が東京に近づくころ、希典は少し顔をあげた。目尻が下がり、やや放心のていであったが、しかし顔色が回復していた。車内の海軍士官たちはそのように観察した。この観察は希典の胸中と附合していた。
希典はこの時にいたって、
----- 帝にもしものことがあれば自分は生きていない。
と決意したのであろう。
そう決断することによって彼はこの血の底へ落ちてゆくような失落の思いから自分を僅かに救い出すことが出来た。この方法しか彼にはなかった。彼はかって帝が自分より先に死ぬことを思ったことがなく、この案を以前から用意していたわけではなかった。しかし今となって思うと、そのことは以前から一途に考えつづけていたようでもあり、ひょっとすると遠い昔からそれをそう思いつづけることによって自分の何かを支えつづけてきたようにも思われた。
いずれにせよ、この場で自決、殉死ということがとっさの決断としてきらめいたことは確かであった。
とっさの間ながら、この着想と決断の見事さは、彼が過去において、一隊、一軍の指揮官としてどの戦場で行った決断よりも、奇妙な比べ方であるが、沈着ですばやく、かつ彼自身において安定感があったであろう。

彼は新橋駅に着いた。駅頭には学習院から人が探しに来ていた。希典はその者に、
----- 私はすぐ参内する。
と告げ、その足で参内し、天機を奉伺し、掛役人から御容態をきいた。
希典はこの日から朝と夕に参内した。彼が参内する時も退出する時も、宮城前広場で正座して帝の快癒を祈っている数万の群集をその目で見ることが出来た。
これが、この時代の日本人の特徴とも言うべき風景であった。封建の世が去ってまだ遠くなく、しかも封建の世に躾られた節度と、権威への服従心と、つねに何ごとかを仰ぐ心を持ち、つねに崇敬すべき対象を持ち、もしその崇敬すべき心が僅かでも自分において薄らげれば天地が崩れるのではないかという畏怖心を併せ持っていた。
この群集とおなじ者が数万の兵士となり、その数万の兵士が旅順攻囲戦における希典の指揮下に入っていた。
希典がかって起草した凱旋の復命書にあるとおり、

「作戦十六箇月間、我将卒ノ常ニ勁敵 (ケイテキ) ト健闘シ、忠勇義烈、死ヲ視ルコト帰スルガゴトク、弾ニ斃レ、剣ニ殪ルルモノ皆、陛下ノ万歳ヲ喚呼シ、欣然トシテ瞑目」
したであろう種類の人々であった。
旅順の攻囲戦があれほど惨烈をきわめたにもかかわらず兵たちが黙々として死に、ついに屍山血河 (シザンケツガ) のすえ陥落させることが出来たのは、希典の力というよりもこの広場で拝跪しているこの群集であるであろう。
希典はいわばその群集の象徴であり、象徴といえばこの時代の将軍、政治家の誰よりも彼はこの群集の象徴であることに似つかわしかった。
『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ