〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/10 (火) 腹を切ること H

帝はこういう乃木希典をして学習院の院長たらしめ、皇族、華族、富豪の子弟の教育に任ぜせしめようとした。
希典の学習院長であることは、彼が凱旋した明治四十年五十九歳からその死まで続いた。
乃木希典が教育者としてどうであったかは筆者はほとんど関心がない。
彼は教育者たることを官吏として拝命したのであり、例えば福沢諭吉のようにその世界に自ら求めて入ったのではなかった。
このため、例えば彼と同時代の教育者である右の福沢諭吉や新渡戸稲造、内村鑑三たちといずれがこの時代の教育のとって偉大であったかなどを比べるのは彼らのために公平でないであろう。
ただ希典の場合、教育者というよりもむしろ道求家でありすぎ、その道求性も彼一個のストイシズムのなかに閉鎖されすぎており、自然その感化は普遍性を欠くきらいがあったであろう。
なにより彼が教育に適しにくいのは、その印象の暗さである。
陰性で暗い印象の教育者などはあっていいものではない。児童や生徒達に年齢では物事の明るさを望み、陰気な教育者に対しては、ただ暗いというだけでその人物の品性や思想まで食わず嫌いになってしまう怖れがあった。
あるとき、院長である彼は特別講演のために海軍の統合平八郎を講師として招いた。希典にすればこの日本海軍の名将が、希典ごのみの克己・禁欲 (ストイシズム) ふうな教訓を垂れてくれると思ったのであろう。もしくは忠義という課題で児童や生徒達の忠誠心を育てる訓話でもしてくれるかと思った。
しかし、本来、東郷という人は若年のころから忠義忠誠などという言葉をことさらに言わぬ人物であった。東郷だけでなくこれは薩摩士族の共通性格であり、かれらは例えば西郷や大久保でさえ、忠義や忠義哲学についてあらたまって語ることをしなかった。
島津時代からこの藩の士風で、忠義などは人が飯を食うがごとく当然の事であり、それを殊更に言挙げするのを恥じる風さえあった。
これとは逆に希典の育った長州は観念の論議を喜ぶ風があり、しきりと忠を言い、それを終生言挙げしつづけることをもって武士たるもののほむべき骨柄としていた。

東郷の話は、希典の期待に対して漫談であった。平素無口で知られた東郷が、この日にかぎってはひどく言葉がはずみ、しかも冗談が多く、このため児童、生徒は笑いさざめき、講堂の雰囲気はともすれば希典のもっとも嫌う弛緩の状態になった。
希典はこれに対し、彼独特の暗さを注入して時に粛然たらしめねばならなかった。彼は苦りきった顔で、ときに立ち上がった。満堂はそれをおそれ、陽が翳ったように静かになった。
東郷の講演はまとまった主題がなく、いわば座談であった。ときに生徒を指さし、彼から質問した。
----- おまえは、何家の子か。
と、その家名を聞き、 「将来何になるつもりだ」 と聞いた。
何人目かに軍人になる、と言った子があった。東郷はその子を覗き込むようにして笑い、
----- 軍人になれば死ぬぞ。
と、からかうように言った、おばけだぞ、といったようないかにも罪のないおどけ方であり、つづいて彼は言った。
----- おなじ軍人になるなら海軍に入れ。海軍なら死なないから。
といった。それを聞いた時、希典は極度に苦りきった。子供たちは講堂を揺るがすほどに笑った。
やがて東郷が演壇を降り、控え室へ去ったあろ、希典が演壇にのぼった。もうそれだけで講堂の中からざわめきが消えてゆき、沈黙に戻った。
「静粛にしなければならない」
希典はそう言い、しばらく壇上で黙っていた。
東郷のあの洒脱すぎる話について何事かを解説したかったのであろう。
軍人にとっては死は当然であり、死への行動こそ忠誠の究極の道であるということを説きたかったに違いなかったが、あるいは東郷への批判になるかと思い、それをつつしんだ。希典はそのまま演壇を降りた。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ