〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/08 (日) 腹を切ること G

戦後、帝は希典に対し、主従としての信愛をいよいよ深くした。 が、寵臣であるという感じとは、少し違うであろう。
帝は維新後、前記山岡鉄舟から人間としての骨柄をつくるためのなにごとかを学ばれたが、同時に大久保利通の推薦で宮中に入った旧熊本藩士元田永孚 (モトダエイフ) から帝王学を学ばれた。
元田は旧熊本藩では京都留守居役、用人、奉行などの職歴を持っていたが、なによりも朱子学の権威であり、性格は和気に満ち、しかも義理あるところは枉げず、醇儒 (ジュンジュ) と呼ばれるにふさわしい風格をもっていた。
明治二十四年病没するまでの間、二十年にわたってこの帝のために師でありつづけ、帝の帝王としての形成に最も大きな影響を与えた。
この元田永孚が繰り返し言ったのは、
----- 寵臣をおつくりになったはなりませぬ。
ということであった。臣僚に対しては平等に御心を注がれるべきであり、いかに醇良 (ジュンリョウ) の者といえども格別な愛情を注ぎ、格別な接触の仕方をなされてはなりませぬ、ということを二十年にわたって繰り返し言上した。
このためこの種の自制心は帝において自然なものになっており、希典に対しても格別な態度をとることをつつしまれたが、気配には出た。そのことを宮廷人たち全てが感じていたが、誰よりも希典自身が感じ、この一事を思う時に彼の全身を走る戦慄は戦後の希典にとって唯一といっていい生けるしるしであった。
希典はいよいよ帝の郎党として傾斜した。

帝はしばしば横浜へ行幸された。そこの競馬場があるからであった。帝は当日汽車で横浜へ向かうが、帝の鹵簿 (ロボ) を警護する近衛騎兵は前日に横浜へ行き、待機し、定刻に駅頭で整列するのを常例としていた。
乃木希典も前日に横浜へ行き、乗馬は貨車輸送し、近衛兵と共に帝の到着を待った。希典が近衛兵の中に混じるというのは、どういう職制にもない。軍における希典は陸軍大将であり軍事参議官であったが、近衛師団長でもなんでもなく、彼がこの行列に紛れ込むことは職制上きわめて珍奇であった。
しかし希典にとってふしぎでなく、彼は帝の郎党であり、さらに帝の軍人である限りは帝を護衛して悪かろうはずがないというのがその理屈であったであろう。
しかし希典のおかしさは他の競馬場へ帝が行かれるときには参加しないということであった。
横浜の場合にのみ彼は臨時に護衛の編制に割り込んだ。その理由については希典は言わず、そのため関係者には不可解であったし、いまなおよくわからないが、あるいは横浜には外人の居留者が多く、その中の不逞のものが帝に対し何事かを仕掛けるのではないかという怖れを希典は土地が横浜であるだけに感じたのかも知れなかった。
もしそれが希典の理由であったとすれば希典の思念の初々しさはどうであろう。中世の郎党が突如この時代に現れたような、あるいはこの時代人であるにしてもこれは少年が抱くような怖れであった。

駅頭から、近衛騎兵が前駆する。沿道には市民や小学生が小旗を持って並ばされていた。その中を近衛騎兵が蹄を鳴らしながら行く。最先頭には二騎である。二騎併進し、ついで一頭が行く。この三騎は露払いであり、大身の洋槍を右小脇にかかえ、左手で手綱を取っている。その行列をむろん人は横切ることは出来ないが、犬でも横切ることは許されなかった。
ところが横浜には犬が多く、犬はしばしば横切った。その前駆の三騎はそういう犬を踏みつけるや、素早く大身の槍を片手で突き刺して犬を串刺しにした。見事な芸であったが、しかし沿道の子供たちの目から見ればこれほど恐ろしいことはなかった。子供たちのうちの何割かは犬好きであろう。彼らは犬を心理的には自分と同類だと思っており、犬が血まみれになっている姿を見て自分が突き刺されたように思った。しかし大御心は慈悲深いと教えられているからは、帝がそれを指図されているとは思わず、前駆の二騎・一騎のそのすぐ後に白馬に乗って進んで行く非近衛的な服装の人がそれを命令しているものだと思い、その人物に対し言いようのない恐怖を感じた。
その人物が乃木希典であった。希典は横浜の子供を恐怖させるために横浜へ出かけてゆくような結果になるのだが、彼自身はそれに気づかず、犬が殺される光景を、ことさらに意思的な目でみすえた。
この時の目が、もし芥川龍之介がそれを見ればその短編の 「将軍」 にあるように偏執狂の目であると感じたであろう。
郎党の希典にとっては鹵簿を横切る犬が槍をもって刺殺されるのは当然であり、犬は当然の死を強制されたにすぎなかった。そのくせ少年の頃羸弱 (ルイジャク) な性格であった希典はその郷里で犬猫の試し切りを強要され、それが出来ず、侮辱を受けた。 彼は沿道の小学生の年齢のころは動物の流血死体を正視することもできないしょうねんであった。
伝記作者たちはその性格の羸弱さを彼は意思力によって克服したとし、大正期の作家はその性格の底に偏執狂的なものを潜在させているとした。

いずれにせよ、この沿道の少年たちと希典は、この瞬間に限っては対話が出来なかったかも知れなかった。沿道の子供たちは他の全ての庶民と同様、帝に対する関係は 「陛下の赤子」 であるということにすぎなかったが、近衛騎兵たちは帝権の顕示者であり、さらに希典はそれよりも特別な位置に自分を置いていた。
彼は華族として皇室の藩屏であり、かつ乃木希典個人として陛下の郎党であった。
犬は近衛騎兵をして突き刺さしめねばならなかった。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ