〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/07 (土) 腹を切ること F

希典は、長州閥のおかげで栄進したが、しかし彼の技能は軍部内では評価が低かった。
少なくとも彼が居なければ明治の近代陸軍が成立しないというような存在ではなかった。
このためもあってその生涯で何度も休職命令を受けている。
彼は休職中も年に一度の陸軍大演習には必ず出て行った。休職軍人や予備後備の軍人はそういうものに出る義務はなく、出ても用事はなかった。しかし彼は必ず出て行った。
軍の近代化に遅れまいとして出て行ったというよりも、ひとつには陸軍大演習は帝が統括されるという理由によるものであろう。
彼は演習の第一線も視察したが、多くは帝の側遠くで佇立 (チョリツ) し、常に帝に気を配り帝を守護するがごとくであり、かつ側近くに行くことを遠慮するがごとくであり、そういう希典の風景や心の動きは帝にはよく感応した。
「乃木は感心である」
と、希典の生涯における最後の休職時代である明治三十五年十一月、北九州において大演習があった時も、帝は、雨中を駆け回る希典の姿を眺め、侍従の藤波言忠 (コトタダ) 子爵をかえりみて言った。
「誰でも休職になれば殆ど演習には出て来ない。が、彼は必ず出て来、あのように泥の中を駈け、雨に濡れそぼっている」
と言われた。
帝はこの大演習のために北九州に下られる途中、長府に二日間泊まられた。
----- これは乃木の故郷だな。
と、何度も言われた。
帝の希典への信任の篤さは宮中では女官さえ知っていた。
軍部の少壮官僚のあいだではそのために乃木中将は予備役編入をまぬがれているとさえささやく者があった。
希典を第三軍司令官に推薦したのは元老の山県有朋であったが、有朋には多少帝のお気持ちを斟酌したところもあったであろう。
旅順攻略中、希典とその幕僚の作戦の拙劣さと中央指示に対する頑迷さに大本営では手を焼き、更迭させようとした。が、帝は、
----- 乃木を更えるな。
と、それをはばまれた。
理論的には攻略中に司令官を更迭することは全軍の士気に悪影響を及ぼすということであったであろうが、ひとつには帝の乃木への主人としての情愛であった。更えれば乃木はそれを恥じ、生きてはいないであろうと帝は言った。
この話は、当然、希典の耳に入った。希典の感動は戦慄以上のものであったであろう。希典はこのあるじの慈悲によって、名誉と生命を救済された。その郎党としての思いが、いよいよ深くなったに相違なかった。

明治三十九年一月十日、乃木希典はその幕僚達とともに広島県宇品に帰還した。 十四日新橋駅着、東京へ凱旋した。
ただちに他の将軍たちと共に宮中差しまわしの馬車に分乗し、参内した。
それぞれの将軍たちが御前に進み出、彼らそれぞれの戦闘経過をしたためた復命書をおのおの読み上げた。
どの司令官のそれも幕僚に書かせた文章であったが、希典のそれのみは彼自身の手になるものであり、しかも、作戦中、上級司令部をしてあれほど手を焼かせつづけた将軍でありながら、その復命書は他のどの司令官のものよりも名文であり、感動的であった。

「・・・・・弾ニ斃レ、剣ニ殪ルルモノ皆陛下ノ万歳ヲ喚呼シ、欣然トシテ瞑目シタルハ、臣、コレヲ伏奏セザラント欲スルモ能ハズ。
然ルニ斯ノゴトキ忠勇ノ将卒ヲ以テ旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長月日を要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天附近ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠乏ニ因リ、退路遮断ノ任務ヲ全クスルニ至ラズ。
又敵騎兵集団ノ我ガ左側背ニ行動スルニ当リ、此ヲ撃摧スルノ好機ヲ獲ザリシハ臣ガ終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ・・・・・」
と、希典は読みつづけてついに絶句し、うなだれ、嗚咽しはじめ、声が次第に高くなり、他の諸将らは座に居つづけるに堪えられなくなり、上座の大山巌が一同に目配せして一時廊下へ遠慮をしたほどであった。
彼らが座をはずした理由の一つには彼らは帝と希典の故人としてのかかわりの深さを知っており、この座はむしろ主従二人きりの感動の場にさせるべきであろうかと思ったのであろう。
彼ら陸海軍将星の軍服は当然ながらすべて拝謁のための美麗な礼服を着用していた。しかしながら乃木希典のみは泥と硝煙のしみついた戦闘服のまま帝の前に立っていた。
このあたりが乃木希典の不思議さであろう。広島の宇品に凱旋してからすでに四日になり、服を着替える余裕は十分にあった。しかしながら彼は戦闘服のままでいた。
----- 戦場からすぐ駈けつけた。
というところをこの郎党は帝にお見せしたかったのであろう。
しかし戦争はすでに三月も前、去年の九月五日米国ポーツマスで講和調印された日をもって終了しており、すぐそこから駈けつけたというというその戦場は既に過去のものであった。
が、希典にとっては戦場は過去ではなかった。帝の前で復命してから彼の論理では彼の戦争は終結するのであろう。
そのために彼は汚れた戦闘服で参内せねばならなかったのであろう。
が、他の将軍、提督たちにとっては多少の迷惑であった。彼らはすべて礼服であり、礼服である限りは彼らが戦争をせず希典のみが戦争をしたかのごとき光景になっていた。
希典は常に劇的であった。その希典が感動的な名文を読み、読みつつ涕涙はなはだしきがために読みつづけるに堪えられなくなった時に、大山巌は廊下へ遠慮した。つづいて東郷平八郎が去り、野津、奥、上村彦之丞らが靴音を忍ばせて去った。
ただ一人児玉源太郎のみが、他に何事かを考えているかのような顔つきでぼんやりと壁を見つめ、佇立したままであった。
このころの児玉は戦争の披露が一時に出たのか顔色が極度に悪く、精気がなかった。彼はこの年の七月、蝋燭の火の尽きるようにして死ぬに至るが、この復命の時期にはもはや、泣いたり座をはずしたりするほどの気根も心の弾みもなくなっていたかのようであった。
が、帝は、この戦争をその智謀と精力的な活動によって勝利に導いた児玉より、希典の劇的たたずまいの方を好まれた。
希典の劇的さは、その性格行動だけでなくその宿命までが劇的であり、彼はその二児をこの戦争で喪わしめた。
戦闘服を着ていま嗚咽している希典の姿は、児玉などよりも日露戦争そのものであり、この戦争の悲愴と壮烈を一身に具現しているかのようであった。
乃木には礼服でなく戦闘服がふさわしかった。
『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ