希典は、長州閥のおかげで栄進したが、しかし彼の技能は軍部内では評価が低かった。
少なくとも彼が居なければ明治の近代陸軍が成立しないというような存在ではなかった。
このためもあってその生涯で何度も休職命令を受けている。
彼は休職中も年に一度の陸軍大演習には必ず出て行った。休職軍人や予備後備の軍人はそういうものに出る義務はなく、出ても用事はなかった。しかし彼は必ず出て行った。
軍の近代化に遅れまいとして出て行ったというよりも、ひとつには陸軍大演習は帝が統括されるという理由によるものであろう。
彼は演習の第一線も視察したが、多くは帝の側遠くで佇立 (チョリツ)
し、常に帝に気を配り帝を守護するがごとくであり、かつ側近くに行くことを遠慮するがごとくであり、そういう希典の風景や心の動きは帝にはよく感応した。
「乃木は感心である」
と、希典の生涯における最後の休職時代である明治三十五年十一月、北九州において大演習があった時も、帝は、雨中を駆け回る希典の姿を眺め、侍従の藤波言忠
(コトタダ) 子爵をかえりみて言った。
「誰でも休職になれば殆ど演習には出て来ない。が、彼は必ず出て来、あのように泥の中を駈け、雨に濡れそぼっている」
と言われた。
帝はこの大演習のために北九州に下られる途中、長府に二日間泊まられた。
----- これは乃木の故郷だな。
と、何度も言われた。
帝の希典への信任の篤さは宮中では女官さえ知っていた。
軍部の少壮官僚のあいだではそのために乃木中将は予備役編入をまぬがれているとさえささやく者があった。
希典を第三軍司令官に推薦したのは元老の山県有朋であったが、有朋には多少帝のお気持ちを斟酌したところもあったであろう。
旅順攻略中、希典とその幕僚の作戦の拙劣さと中央指示に対する頑迷さに大本営では手を焼き、更迭させようとした。が、帝は、
----- 乃木を更えるな。
と、それをはばまれた。
理論的には攻略中に司令官を更迭することは全軍の士気に悪影響を及ぼすということであったであろうが、ひとつには帝の乃木への主人としての情愛であった。更えれば乃木はそれを恥じ、生きてはいないであろうと帝は言った。
この話は、当然、希典の耳に入った。希典の感動は戦慄以上のものであったであろう。希典はこのあるじの慈悲によって、名誉と生命を救済された。その郎党としての思いが、いよいよ深くなったに相違なかった。
明治三十九年一月十日、乃木希典はその幕僚達とともに広島県宇品に帰還した。 十四日新橋駅着、東京へ凱旋した。
ただちに他の将軍たちと共に宮中差しまわしの馬車に分乗し、参内した。
それぞれの将軍たちが御前に進み出、彼らそれぞれの戦闘経過をしたためた復命書をおのおの読み上げた。
どの司令官のそれも幕僚に書かせた文章であったが、希典のそれのみは彼自身の手になるものであり、しかも、作戦中、上級司令部をしてあれほど手を焼かせつづけた将軍でありながら、その復命書は他のどの司令官のものよりも名文であり、感動的であった。
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