〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/06 (金) 腹を切ること E

日露戦から凱旋した希典にはおびただしい栄職と栄爵が待っていた。
従二位に叙せられ、伯爵を陞受 (ショウジュ) され、しかも現役の陸軍大将であり、功一級を授けられており、軍事参技官であり、かつ学習院長を兼ね、さらに宮内省御用掛であった。
彼は、現職軍人として宮廷に入ったといっていい。そのことについては華族の中堅ともいうべき伯爵である事自体がすでに宮廷人であり、華族は皇室の藩屏として法制上特別な階級に属していた。
さらに彼は皇族や華族の子弟の教育機関である学習院の院長であり、ついでになによりも彼が宮廷的な存在であるということは彼が宮内省御用掛になったことが証拠だてていた。
このため、足しげく参内した。
明治帝は、希典が好きであった。彼を学習院長にしたのも帝であった。凱旋後の希典のために元勲の山県有朋は別な職を用意しようとしたが、帝が自ら発案し、希典の剛直をもって貴族の子弟を感化させようとし、
----- 乃木を学習院の院長にせよ。
と直命した。あわせて宮内省御用掛という立場を与えるよう指示したのも帝であった。
帝は希典を宮廷においてしばしば見ようとした。他の華族は年に数度、定められた儀礼の日に儀礼の奉伺をするだけでよく、それ以外に宮廷に用もなかったが、伯爵乃木希典にこの二つの職を与えておけば彼の参内の機会はふえるであろう。

明治帝は嘉永五年の生まれで、希典より三つ若い。帝は維新成立の時は十六歳であり、かっての天皇が公卿や女官達の手で薫育されたのとは違い、この帝に限っては帝王としての薫陶を武士から受けられた。それも維新の風雲をくぐってきた連中であり、ことに明治三年、西郷隆盛が、
「帝はよろしく英雄でおわしまさねばなりませぬ。英雄のお相手には当代第一の豪傑がよろしゅうございましょう」
として旧幕臣山岡鉄舟を侍従にすすめてから、この帝の身辺はいよいよ武骨なものになった。
鉄舟は一個の求道家であった。無私ということをもって成道の目標とした。この人はすこぶる剣を好み様々の流儀を経てついに禅によって剣機を悟り、無刀流を創始し、春風館を開いた。
帝はこの鉄舟を好かれた。鉄舟の帝のために献身した。
明治六年、宮城が炎上したとき、鉄舟は淀橋の屋敷で変をきき、寝巻きに袴をつけて、宙を飛ぶようにして宮殿に駆けつけたが、御寝所の錠がかかっていた。鉄舟はこぶしをあげてその大杉戸を打ち砕き、こぶしから血を流しつつ飛び込んで帝を助けた。帝はこの時の事を思い出すごとに驚きを新鮮にし、
「鉄舟は飛行術でも心得ているのか。とにかく、あの時なぜあのように早く来れたのか、今もってわからない」
としばしば言われた。
鉄舟への帝の信頼感と愛情はいよいよ深くなり、御座所には鉄舟の佩用の刀をおかれた。
----- 鉄太郎 (鉄舟) 不在といえども、あの男の気魂がわしを護っている。
と、この趣向を興じられたという。
かって帝ははじめて奥州に巡行される時、なにぶん維新後また日も新しく、この地は戊辰の時に官軍に抗したところだけに皇后が帝の身に万一のことがあるのを心配された。そのとき帝が、
「案ずることはない。鉄太郎がついている」
といわれた。
これほど信愛された鉄舟も、明治二十一年、さほどの齢でもないのに病没した。帝は深くその死を愴んだ。

帝にとって鉄舟がかけがえがないというのは、鉄舟が帝にとって郎党であることであった。
資本主義体制下の立憲君主国の君主である帝は、近代憲法上の法制的存在であり、自然人としての人間である部分を少なく生きている。
帝が率いている者は臣僚であり、官僚として存在し、彼らもまた法的存在であり、帝の前に出た時は自然人ではない。 彼らに対して帝は家来であるという人間的親密さを持つことができないのである。
中世のころ、草深い関東の野で鎌倉武士たちが連れて歩いたあの郎等・朗従・家ノ子といわれる存在に近いものが山岡鉄舟であり、それであればこそ、帝は鎌倉武士たちがその郎等を愛したように鉄舟を愛した。
----- 乃木はそれに似ている。
と、帝は鉄舟の死後、そのような思いで希典と言う男を見、その思いが年とともに帝において深まったのではあるまいか。
乃木希典には鉄舟の印象に見るような禅的明朗さがなく、鉄舟ほどの天性の叡智がなく、鉄舟のような剣の悟達者ではなく、鉄舟のようにその存在に威風を感じさせる肉体条件ももっていない。
一つ共通しているのは武士らしさであり、古格な武士の軌範の中で生死しようとしている点であろう。
もっともその点ならこの時代、大官の中でも例は必ずしも少なくはない。たとえば日露役の軍司令官達は維新のころ武士として世に存在し、その後も武士的な自己規律をさほどに失いはしなかった。
しかしながら、彼ら、大山巌、黒木為 (タメモト) 野津道貫 (ミチツラ) たちは帝の前に出た時は忠良な帝国の臣僚であったも、なまな郎党ではない。
郎等であるということは、どういうことなのであろう。

一種の錯覚がなければならない。狂言における太郎冠者がそのあるじの大名に対するように、あるいは 「義経記」 の武蔵坊弁慶がその主人の義経に対するように、自分という自然の、自然人としての主人が帝であると思わねばならなかった。
他の臣僚のように帝を近代国家の法制的存在として尊崇するのではなく、帝が草深い田舎の土豪であるような、自分がその土豪の家のノ子であるような、そういう錯覚を持たねばならなかった。
鉄舟にはそれがあった。希典の成熟時代は鉄舟のころよりも国家も皇室もはるかに整備され、帝の存在はいよいよ象徴化されていたが、乃木希典という性格はそういう法制や法制的組織をたとえ頭脳で理解できても、彼の過剰な、異様なほどに強い従者としての情念はそれらに対して無感覚であり、彼が帝を思うときは常に帝と自分であり、そういう肉体的情景の中でしか帝のことを思えなかった。
希典は、常に帝の郎党として存在していた。
----- 乃木はちょっとおかしい。
とも、この聡明な帝は思ったであろう。
帝は、諧謔家であった。侯爵蜂須賀茂韶 (モチアキ) は旧大名の出身としてはすぐれた外交官であったが、彼が枢密顧問官の時であったか、宮中に伺候し、出御を待っている間に卓上の外国煙草を少しばかりポケットに入れた。帝が出てきて卓上の煙草が減っているのに気づき、
「蜂須賀、先祖はあらそえぬのう」
と言われたという。帝におけるその種の感覚の中でも乃木希典の映像は言い難い愛嬌をもって映っていたのであろう。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ