〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/06 (金) 腹を切ること D

素行には 「中朝事実」 という書物があることは古くから知られていたが、それが皇室絶対思想ともいうべき主題で貫かれているため素行生存中の江戸初期の政体下では刊行は不可能であり、されなかった。さらに江戸期を通じてこの原稿は、延宝九年津軽藩で小部数出版されたことを例外とすれば一般にはしられなかったというにひとしく、明治後も埋もれたままになっていた。
希典はその稿本が肥前平戸の旧藩主松浦子爵家に秘蔵されていることを知り、ゆてを介してそれを閲読し、ついに借用し、数ヶ月かかってそれを手写した。
この書物は素行がその晩年に書いたもので、この時期、素行は漢学者としては珍しく神道を研究し、それに傾倒し、そのことによって極端な国粋主義者になった人物だが、彼は日本は神国なるがゆえに尊し、という感動をもってこの書上下二巻十三章を書いた。
このころの素行は陽明学の唯心主義からやや脇へ外れ、一種の神秘主義者の傾向を示し始めており、「中朝事実」 はその点で学問の書というよりも宗教書に近かった。
たとえば天孫降臨 (テンソンコウリン) のきだりを説くにしても、
「神勅至れり。聖主万々の厳鑑なり」
といったふうの文章であり、感動の押し付けに満ちていた。
神勅によって、 「天つ神の皇統、竟に違はず」 と言い、それゆえにこそ 「中朝 (日本) の文物、更に外朝に愧ぢず、その威武の如きは外朝また比倫すべからず」 というように続いてゆく。

希典は、日夜これを手写した。写し終わると更に写して人にも与え、写した上でも更にそれを読んだ。
「乃木閣下は、書物といえば生涯 『中朝事実』 しか読まなかったのではないか」
と、陸軍内部の若い将校の間でささやかれたのは、ひとつにはこの書物への異様な身の入れ方にようるものであろう。
いわば奇男子といってよかった。彼は既にはるかな過去に道統の絶えた山鹿学派の最後の後継者になろうとしているようであり、その学説を、陽明学的発想によって生活化しようとしていた。たとえば前記大塩平八郎がこの奇矯な学統から見なければその劇的なものを理解できないと同様、乃木希典においてもこの視角を外してはわるいは彼を見失うかも知れない。
「この道統には、大石内蔵助良雄と吉田松陰、そして西郷隆盛がいる」
と、希典は五十代のころ、その副官に語ったことがある。
隆盛は山鹿学派ではなかったが、陽明学の徒であった。幕末において希典と同時代人であった人に越後長岡藩家老河井継之助、備中松山藩家老山田方谷 (ホウコク) などがいるが、方谷を除いて以上の人々はことごとく反逆者の道を辿り、非業に斃れた。

この陽明学を誰にほどこしてもことごとく右のようになるというのではなく、もともと性格として陽明学的体質というものがあるのであろう。そういう性格者の中に陽明学思想が入った時、その性格に正義が与えられ、倫理的に琢磨され、その行動に論理が与えられるのに違いない。
あたかも十七世紀の英国キリスト教界におこったフレンド派のごとく、その会派の属する者のことごとくが身を震わす者 (クエーカー) になるのではなく、選ばれた気質のものだけが主のみ言に戦慄し、絶対平和のために挺身し、常識外の純粋行動をとるのと酷似していた。

希典には、資質としてそういう性格があったのであろう。日露役のころ、彼が陥落せしむべき旅順要塞が落ちず、大本営と満州総軍からの督促が激しくなり、ついに総軍の児玉から、
----- 乃木軍の司令部がいつも後方すぎる。そのように後方では刻々動く前線の状態がわからず、的確な作戦指導もできない。
とまで叱責されて以後、希典の様子があやしくなり、彼は好んで前線を視察しようとし、それもしばしば敵の射程内にまで身をさらした。
明らかに敵弾による自殺を考えた上での行動であり、自殺志願者特有の緊張と放心の表情が、希典の相貌に出始めていた。
幕僚達は密かに申し合わせ、希典を監視した。副官が半ば力ずくでさがらせたこともあった。

旅順が落ち、北方に転戦した時、奉天西北方において乃木軍は敵の不意打ちを受け、麾下の歩兵第三十三連隊が全滅し、後備旅団が混乱し、逃げてきた兵が軍司令部まで駆け込むという空前の敗北を喫した直後も、希典は自殺的な視察を決意した。
当時彼は大石橋 (ダイセッキョウ) に司令部を置いており、その司令部用の民家にさえ敵の砲弾が飛来するほどの騒ぎであり、参謀たちはその業務に忙殺されていた。
希典はぼんやりそれを眺めていたが、ふと立ち上がり、
「わしはちょっと出かけるから」
と、外へ出ようとした。単騎で前線視察をするというのである。
前線は優勢なロシア軍の攻撃を受けており、彼が騎馬という高い姿勢で視察すれば十中八九、敵弾の犠牲になるだろう。
参謀も副官も、この多忙な中で彼を止めることに熱中しなければならなかった。重傷の黄疸で寝ていた参謀長の松永正敏少将までが出てきて必死に制止した。

旅順の時も大石橋の時も、死は美であるとしか希典には考えられなかったのであろう。
そのことは、陽明学的な純粋発想からすれば正しいであろう。動機が美でさえあれば結果をさほどに重視せずともよい
----- 成敗 (結果的な成功不成功) を問わず。
ということであろう。
しかしながら現実の問題としては激戦中に司令官が戦死することは全軍の士気をいちじるしく落とすだけでなく、その報道は新聞電報によって即日世界に喧伝され、ロンドンの証券市場における日本の信用を低落させ、戦費調達のためにやっきになっている日本政府の努力をこれほど大きく阻害する事態はないといえであろう。
しかしながら、希典はそのことには疎く、疎くても彼の閉鎖的な、その独特の思考法では少しも差し支えなかった。
しかし幕僚あげての制止で希典は外出することだけはようやく思いとどまった。
希典の自殺的な戦死を希求するという、そういう劇的なものに対する彼の衝動は、右のようなところから出ているのであろう。
もっとも同様の劇的行動性という点から見れば、大塩平八郎、河井継之助、西郷隆盛の劇的行動性は巨大であり、いずれも抗しがたきものに抗してその身を粉砕しているが、希典の場合は敵の小銃弾にあたろうというその程度の規模のものであった。
しかし規模の小ささは希典には彼らに比べて経綸の才が欠如しているというだけの理由であり、彼は経綸家でないだけにかえってその劇的な衝動はいっそうに純粋であるかも知れなかった。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ