〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/05 (木) 腹を切ること C

つねに、希典にあってはものごとが劇的なのである。
日露役が終わり、希典は凱旋した。その凱旋行進が九月三十日、東京で行われた時、他の将軍たちは馬車で進んだが、希典のみは馬車を用いる事を拒絶し、それらの華麗な馬車が進行し去ったあと、彼は一人騎馬をもって行進の最後を、それも離れて進んだ。白髯痩身 (ハクゼンソウシン) のからだを鞍に託し、背をやや前へかがめ、内臓の虚弱さをかばうがごとく手綱をあやつってゆく希典の姿は、希典の詩の中でも傑作の一つとされている七言絶句をそのまま詩劇の中に移したかのようであった。
詩に曰う。

皇師百万驕虜ヲ征ス
野戦攻城屍山ヲ作ス
愧ズ我何ノ顔アッテカ父老ニ看エン
凱歌今日幾人カ還ル

この詩の作者としては二頭立ての馬車の奥深くおさまるべきではなかったであろう。単騎進むことによって群衆の中に身をさらし、刑場に曳かれる者のごとく身を進めてゆかねばならぬであろう。
希典はそのようにした。もし群衆の中から石を投げる者があれば希典の美意識は甘んじてそれを額に受けたに違いない。
警吏がその者を捕縛しようとすれば希典は馬を寄せ、その警吏を物柔らかに制止したであろう。
希典はこの詩の插画のごとく生きてゆこうとした。彼はもともと自分の精神の演者であった。

自分の自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない、という考え方は明治維新まで受け継がれてきたごく特殊な思想の一つであった。
希典はその系譜の末端にいた。いわゆる陽明学派というものであり、江戸幕府はこれを危険思想とし、それを異学とし、学ぶことを喜ばなかった。
この思想は江戸期の官学である朱子学のように物事に客観的態度をとり、ときに主観をあわつつ物事を合理的に格物致知 (カクブツチチ) してゆこうという立場のものではない。
陽明学派にあってはおのれが是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのようにおのれが知った以上、精神に火を点じなければならず、行動を起こさねばならず、行動を起こすことによって思想は完結するのである。行動が思想の属性か思想が行動の属性かは別として行動を伴わぬ思想というものを極度に卑しめるものであった。
いわば秩序の支配者にとっては恐るべき思想であり、学問というよりも宗教であることの方がやや近い。
この思想は、人の系譜で考えるべきであろう。数は僅かでしかないが、その殆どの人々が劇的生涯を送った。
その日本における学祖は、江戸初期の人中江藤樹 (ナカエトウジュ) である。
藤樹は少年の頃は当然ながら朱子学を学んだが、この学問のややもすれば形式主義的であることを喜ばず、三十三歳の時たまたま 「王竜渓語録 (オウリュウケイゴロク) 」 を読んで大いに感悟し、さらに王陽明全集を入手し、ついにこの学徒になり、知行合一到良知 (チコウゴウイツチリョウチ) を唱え、数奇の生涯を送った。

この学統は熊沢蕃山 (クマザワバンザン) に受け継がれ、さらに山鹿素行 (ヤマガソコウ) にも移伝した。
素行は朱子学から入り、一方では兵学者であったが、中年で晦冥 (カイメイ) し、陽明学的世界に入って思想家として彼自身を完成した。
素行はその兵法をもって諸侯から崇敬されたが、寛文六年幕府はその思想を危険視し、彼の著 「聖教要録」 を喜ばず、これを理由に播州赤穂へ流した。
赤穂藩主浅野内匠頭長直は藩をあげてこれを厚遇し、とくに城代家老大石良欽 (ヨシスケ) 、その弟大石頼母 (タノモ) は献身的な門人になり、よく素行に仕えた。
素行は斜面までの間九年、赤穂に居た。このため赤穂藩は素行の思想による強烈な信奉集団になったというべきであろう。
その次の代においていわゆる赤穂浪士事件が起こるが、もし素行の思想がこの藩になければ起こっていないであろう。なぜならば藩主の失敗による改易などということはそれ以前にもそれ以後にも他藩においては例が多かったが、しかし他藩士が赤穂浪士のような行動を起こしていない。

陽明学を信奉すれば、 「懦夫 (ダフ) をも志をたてしめ、頑夫をも潔 (イサギヨ) からしめ、人格に生気を帯び、行動に凛気 (リンキ) を帯びしめる」 と当時いわれたが、それだけに危険であった。
江戸も末期に近いころ、この学統の巨魁として大塩平八郎中斎が出現した。
大塩は大阪町奉行の与力であるとともにこの学派の重鎮であった。
天保七年、関西地方の凶作によって大阪に飢民が満ちたが、幕府はなすところがなかった。
大塩はその救恤 (キュウジュツ) を嘆願したがきかれず、ついに彼は自家の書籍、家財を売って金穀に代えて窮民をうるおしたが、なおすくうに足りないため、ついに飛躍した。
天保八年二月、兵を挙げた。
この前後から以後の彼の行動は右の特殊思想によって理解するよりほかはないであろう。大塩は幕府の下級行政官でありながら幕府に対し武装蜂起した。しかも大塩は奇矯な性格の持ち主ではなく、その現職当時は能吏と言われたほどの男であり、さらに若気ともいえぬ年齢であった。
齢は四十三になっていた。それほどに常識的世界の男が、まるで衝動のような突然さで、反乱を思い立ったのである。誰が見ても反乱を起こして勝てるような時代でなく、成算なども万に一つもなかった。それでも起こすというのがこの学派の徒であった。この学はにあっては動機の至純さを尊び、結果の成否を問題にしない。
飢民を見れば惻隠 (アワレミ) の情を起こす。そこまでが朱子学的世界における仁である。陽明学にあっては惻隠の情を起こせばただちに行動し、それを救済しなければならない。
救済が困難であってもそれをしなければ思想は完結せず、最後には身を滅ぼすというのがこの思想であった。
大塩は乱を起こし、このため市中の焼けること一万八千、ついに捕吏に包囲され自殺した。
この学問にあっては事の成否を問うことを卑しむ。事が成功するかどうかを考え、成功するならやるというような考え方を不純として排斥するのであり、この思想に忠実である限り、大塩平八郎は何人でも出るであろう。
幕末騒乱期の初期、京におけるもっとも高名な陽明学者であった春日潜庵 (カスガセンアン) は安政ノ大獄で下獄しているし、この時代最も熱心なこの思想の遵法者であった越後長岡藩の家老河井継之助 (ツギノスケ) は打算の感覚もきわめて鋭敏な持ち主でありながら、最後は 「成敗は天にあり」 として決然と飛躍し、時流に抗し、わずか七万四千の小藩でありながら官軍に対して絶望的な戦いを挑み、ついに自滅している。

乃木希典のこの道統は、彼の縁族である吉田松陰と玉木文之進から出ていると言う意味で、長州における陽明風山鹿学派のもっとも正統な系譜を継いでいるであろう。
松陰の場合は、彼の憂国の思いのきわめるところ、海外に渡航する以外にないとした時その行動が飛躍し、一舟を駆ってペリーの艦隊に接近し、それがために幕吏に捕縛され、刑死した。
松陰の死刑後、希典は松陰の叔父であり師であった玉木文之進のもとにあずけられ、唯一の住み込み弟子として薫育されている。
乃木希典における一種の奇蹟は、この時期、玉木文之進に授けられた思想に、それ以後も少しも反逆せず、生涯それを守り、他の思想へ接近しようともしなかったことであった。
ことに三十九歳で渡独し、四十歳で帰朝してからの彼が反覆熟読した書物は、山鹿素行の諸著述以外になかったと言っていい。
彼の思想はいよいよ憑かれたような勢いでもってその少年の頃に戻ろうとし、彼の読書時間の殆どはそのことに費やされた。
山鹿素行は精力的な著述家であったためにその著書はすこぶる多く、読み始めれば足りないということはなかった。
謫童問 (タッキョドウモン) 、武家事紀、山鹿語類、武経七書諺義、古今義略考、武教小学、聖教要録、士談、原源発機 などを希典は繰り返し読んだ。
希典にとって終生忘れられなかった感動は、独逸から帰朝後、山鹿素行のうずもれた秘著を発見したことであろう。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ