〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/04/04 (水) 腹を切ること B

結婚後も、希典は毎夜泥酔して帰ってきた。三年の間に勝典と保典が生まれたが、このことはおさまらなかった。姑はその罪を静子にあるとし、はげしく当った。
このため静子は心労し、一時期、希典の了解のもとに両児を連れて本郷湯島に別居をした。
静子が二十八歳の時、希典は欧州差遣 (サケン) を命ぜられ、彼女が三十際の時希典は帰朝した。
この帰朝後、乃木希典は豹変し、別な男になった。このことについては前章で述べた。
希典は茶屋酒をやめただけでなく、帰宅後非軍人的な和服に着替えることもやめた。独逸軍人がそうであるように寝るまで軍衣軍袴 (グンコ) を脱がず、寝てからも軍用の襦袢 (ジュハン) 、袴下 (コシタ) を脱がず、さらにこの習性が昂じてくると彼は寝ている時でさえ軍用のズボンである軍袴をうがっていた。
彼はそれを自分だけの規律でなく陸軍の全将校の規律たらしめるよう陸軍省に上申したが、彼が考えている軍人の様式美についての意識は狭く強烈でありすぎ、宗教的ですらあったため陸軍部内で理解されず、不幸にも黙殺された。それ以後、彼はその規律を自分だけの閉鎖されたなかだけに通用するものとし、副官にすら勧めなかった。
彼の相貌がどこか行者のそれに似はじめてきたのも、彼が極端な自律生活に入ったこの前後からであったかもしれない。

彼における自律というのはどういうことであろう。
結婚後二十年経ったころ、乃木希典は何度目かの休職ののち香川県善通寺の第十一師団師団長に補せられた。明治三十一年の秋である。
希典は単身赴任した。婦人を東京に残したのは、二児の教育のためであった。
この善通寺師団は新設であったため、師団長官舎がなかった。このことはむしろ希典を喜ばせ、
----- これを機会に、戦時の暮らしをする。
と言い、善通寺村から一里ほど離れた香川県仲多度郡竜川村の金倉寺 (コンソウジ) という寺院に馬丁とともに宿営同然の暮らしをすることにした。
戦時のつもり、と彼は言ったが、この時期が戦時であるはずがない。しかしこの自律家にあってはそういう緊張を想定することでむしろ精神が安らいだ。
彼の精神は常に傾斜を必要とした。彼はこの金倉寺にあっては十畳の部屋を寝室にしていたが、寝具を用いず、昼間着けている軍服のまま畳に身を横たえた。わずかに将校用毛布をかける程度でこの着任早々の冬季を過ごそうとした。事実、そのように過ごした。
この着任して最初の冬、それも大晦日の夜、にわかに妻の静子が、この寺にたずねてきた。希典の予期しないことであった。

この日、午後から雪が降り、静子はそれを避けるために紫ちりめんのお高祖頭巾 (コソズキン) をかぶっていたが、寺の玄関でそれをとり、取り次に出た寺僧にむかい、自分は乃木の妻である。火急の用が出来 (シュッタイ) し、東京からやってきた、その旨を乃木に取り次いでもらえませぬか、と鄭重に依頼した。
寺僧は奇妙に思った。
希典は玄関のすぐ側の十五畳の間で書見をしていた。
「どうぞ」 と寺僧は、自分が取り次ぐよりもそこへ通ってもらおうとした。しかし静子は希典の気質を知っていた。
今は、夫の希典の規律によれば戦時であり、この寺は野戦の司令部であり、そういう想定がある以上、妻がたずねてくるべき場合でも場所でもない。このため夫の許可を得ねばならず、寺僧に取次ぎを頼んだのである。
この当時、東京から四国の善通寺までの交通はよほど不自由であったし、そのうえ日が大晦日であり、それを押して彼女がわざわざやって来たについては手紙にも書きがたい事情がおこったからであろう。このことは家庭上の事件で公務ではなかった。推察される事情は、当時、士官学校へ入学したばかりの長男勝典の身の上に起こったことであろう。
勝典は軍人を好まなかったらしく、休日に帰宅したまま学校に戻らなかった。当然、軍法により処罰されねばならないが、静子はむしろこの勝典に同情し、説得するよりもむしろ対校させたいと思った。このことと、筆者において不確かではあるが、とにかくこの大晦日、四国に来るというのは容易な出来事ではなく、家長の希典の指示を仰ぐ以外に方法のない出来事だったのでだろう。静子はそのために来た。
寺僧は、希典に取り次いだ。希典はすでに玄関から聞こえてくる声で静子の来訪に気づいていたらしく、すぐさまかぶりをふった。
----- 会わぬ。
というのである。寺僧が驚き何度も念を押したが、希典の態度は変わらなかった。寺僧はついに玄関に戻り、静子にその旨を伝えた。静子は呆然とし、やがて目を上げ、ひどく昂奮した表情を示したが、すぐその色を消した。しかし立ち去ろうとはしない。
この様子を聞いて、金倉寺の老院主は希典の部屋に行き、なかば怒気を含んで取りなそうとしたが、希典の態度は少しも変わらなかった。
老院主は
「されば、夜でもある。雪も降っている。当山の離れに奥様をお泊めしましょう」
と言うと、希典はそれでもなおかぶりをふり、
「そのことは辞退したい。御当山に女人を入れることはつつしまねばならぬ」 といった。
結局、静子は多度津まで引き返し、そこで宿を取っている。
この当夜、希典の高級副官である藤原甫 (フジワラハジメ) 少佐がこの紛争を聞いて金倉寺に駆けつけ、希典と折衝し、深夜に至るまで懇願しつづけ、ようやく明日この寺で面会するというところまで漕ぎつけた。
翌夕、希典は静子に会っている。
希典は自分の規律の中に当然ながら静子をも同居させようとしていた。希典が彼女に面会を忌避した理由は、
「自分の同意を求めることなく、この任地に突如来た。会う会わぬということよりもその事の方が重大である」
ということであり、事態の急よりもあくまでも形式の美しさの方を希典はその妻に求めた。
このいかにも劇的でありすぎる事件は、のち乃木希典が高名になってからこの土地の人々によって思い出され、金倉寺境内の松に石碑を建てた。乃木将軍妻返しの松、というのが、その碑名である。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ