〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/04/04 (水) 腹を切ること A

その副官伊瀬地好成大尉が、乃木の母堂寿子 (ヒサコ) から、
「希典に嫁をもたせようと思いますが」
と相談をもちかけられたのはこの年の春であった。
母親の寿子の思案では、嫁さえもたせれば、希典はその沈湎から立ち上がるであろうということであり、そのことを希典にも何度もすすめた。ところがある日、希典はふと、
「薩摩の女なら」
と、洩らした。彼はこの時期、軍部内における薩長両閥の人事抗争にあきあきしており、長州人である自分がすすんで薩人の娘を嫁にすれば無言の警告になるであろうと思っていた。少年のような正義感であった。
この老母は大いに喜び、それを希典の副官である伊瀬地大尉が乃木家を訪れた時、ひそかに相談したのである。
老母は伊瀬地好成が鹿児島士族である事を知っていた。あなたの旧藩の士族のうち、どなたかお心当たりはございませぬか、とたずねたのである。
伊瀬地はしばらく思案していたが、
「ないこともございませぬ」
と答えた。すでに伊瀬地の脳裡には湯地家の第七女がうかんでいた。
東京における新階級の世間は狭い。この伊瀬地はのち陸軍中将・男爵になる。旧薩摩藩時代は湯地家と隣同士であり、しかもうすい血縁があり、そういう縁から東京転住後、両家は頻繁に往来していた。
「いかがでございましょう」
と、その湯地家のことを老母にいうと、老母は乗り気になった。
相手は開拓使書記官であり、家格もつりあう。しかも当のお七は教育もあり、かってある子爵家から懇望されたというほどに美貌であり、なにもかもが揃っていた。
このあと伊瀬地は湯地家に申し入れた。きわめて運命的なことに、お七は陸軍中佐乃木希典という人物を、垣間見であるとはいえ知っていたことであった。このことが彼女の生涯を決定した。彼女が希典を見たのは、ほんの一月ばかりまえのことである。
その日、五月十七日である。それより三日前に石川県士族島田一郎らが、参議大久保利通の馬車を紀尾井坂 (キオイザカ) で要撃し、刺殺した。この大久保の死は国葬をもっておくられた。この国葬の儀杖兵指揮官が乃木希典であった。
儀杖兵は国葬の始まる前、榎坂において堵列 (トレツ) していたが、指揮官乃木中佐の馬上の位置がちょうど湯地家の門前であり、やがて葬儀の開始とともに彼は儀杖兵に号令を下すべく姿勢をただし、指揮刀を抜いた。その馬上の姿を、邸内の菜園にいたお七の目は、生垣を通して十分に見ることができた。
「あの方が、乃木さんです」
と、すでに他家に嫁いでいる姉のお六がお七にささやいた。
乃木希典という軍人については当時の東京市民は西南戦争の錦絵を通してよく知っており、お六もその錦絵の知識で言ったのである。
錦絵ではむろん軍旗を奪われた乃木希典としては描いておらず、植木の激戦における勇将として描いていた。
お七にすれば歴史上の英雄を見たように思いもし、その英雄があまりに若すぎることに驚きもした。

そういう記憶が、お七にある。
その記憶が、お七にこの縁談を承諾させ、彼女の生涯の運命を決めることになった。
縁談の成立から結婚まで二ヶ月あまりという忙しさだった。
婚礼は明治十一年八月二十一日、乃木家で行われたが、この日の希典の日記によると、大雨であったらしい。
日記によれば彼は婚礼の日であるというのに平常どおり出勤し、隊務をとり、教導団に人を訪ね、午後、山県卿を訪問し、帰路衛戌 (エイジュ) 本部にゆき連絡事務を果たしている。
日記では数行にわたってそれらのことを書き、最後に四字、
----- 本日結婚。
とのみ書いているに過ぎない。
彼は婚礼の定刻から五時間以上遅れて帰宅している。日記の記載事項から察してもさほど火急の用務があったわけでもないのに、これほど遅れて帰宅しているのは、やはりこの人物らしい心の屈折から出たものであろう。含羞 (ガンシュウ) のはなはだしさということであろう。

婚礼の礼式が終わり、祝宴になった。希典は来会した同僚たちと酒杯をかわして泥酔し、杯盤の散乱するなかに倒れ、ついに起き上がれなかった。気の強い男ではなかった。
深夜に目を覚まし、起き上がってお七を呼び、
「まずこの家の家風の厳格さを知るべきである。ついで困難なのは口やかましい母と心の曲がった妹がいることだ。これでは行く末気づかわれると思うようなら今夜、早々湯地家に引き上げるがよかろう」
と言った。
希典が三十まで結婚しなかった理由の一つはこのあたりにあったのかも知れない。
が、お七は否といった。ことがここまで来てしまった以上、彼女にあってはそれ以外にどういう態度も選べるはずがない。
さらに希典は彼女の名前のことを言った。鹿児島ならば知らず、この東京にあってはお七という名で連想される婦人の犯罪者が、江戸のころにいた。その連想が働く以上、軍人の妻としてふさわしくないであろう。ちなみに希典は静堂という号をもっていた。
「その静の字をやる」
と言った。
この夫婦はこのようにして成立した。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ