〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/04/03 (火) 腹を切ること @

死は自然死であってはならないという、不可思議な傾斜が乃木希典においてはじまったのは、よほど年歴が古い。
彼は最後にその思想的な死を完成させるのだが、むしろこの傾向が彼の行き続けてゆく姿勢を単純勁烈に支えてきたともいえるのではないか。

彼は右のとおり、明治四十五年九月十三日午後八時、その自邸で自害した。妻静子も同時に死んだ。
妻静子はもとはお七と言い、結婚後静子とあらためたが、戸籍名はシチであった。乃木希典が長州人であるに対し、彼女は薩摩藩士の娘である。

お七のころの彼女は、のちの陸軍大将伯爵乃木希典夫人とはおよそ印象の附合しにくい娘であったように思われる。
彼女の実家は、湯地氏という。湯地家は、維新前は体面上こそ上士であったが、故あって滅禄され、十人扶持の奥医師ということになっており、文字どおり赤貧の家であった。
しかしながら湯地家は薩摩の武家階級の家によく見られるいかにも南国ぶりの明るさを持った家庭で、その点、観念主義的藩風とよくいわれる長州の武家階級の家庭とは、多少色合いの違いはあるであろう。すくなくとも希典の父希次がつくった乃木家の家風とはおよそ違っていた。
彼女は、この湯地家の七番目の子として生まれた。すぐ上の姉はお六であり、彼女は第七子であったためにお七と名づけられた。
父定之は彼女が晩年に出生した末子であったため、その愛しかたはときに溺愛にちかかった。
お七は小柄の明るい子で、人によくなつき、兄姉や親戚の誰からも愛せられた。
湯地家というのは、多くの薩摩人の家々と同様、維新とともにその家運を好転させた。
総領の兄の湯地定基が維新早々に藩費をもって米国に留学し、明治五年帰朝して新政府の官員になった。このため一家はあげて東京に転住し、お七は父にねだって麹町に創設されたばかりの麹町女学校に入学した。
彼女は物学びのいい子で、薩摩にいた頃、鹿児島に新設されたばかりの女学校にも籍をおいていた。
彼女に教育をつけることに熱心だったのは父よりもむしろ米国帰りの総領の兄で、
----- 女子に教育のない国に文明はない。
という考え方を持っていた。
お七はなによりも画才があり、彼女の父はその才能を伸ばさせようとした。父は彼女を女学校に入れるとともに絵師菊地某の塾に通わせた。
彼女はここで草花ばかりをかいた。粉本模写 (フンポンモシャ) にたくみで、模倣性のつよい絵だったが、、描線に力があり、男のような線だといわれた。

いずれにせよ、鹿児島県士族湯地家にとって明治という時代ほどありがたいものはなかったであろう。
その総領の定基は郷党出身の大官である黒田清隆に引き立てられ、開拓使出仕になり、さらに根室県県令を経て累進し、のち元老院議員、貴族院議員に勅選されている。 彼は昭和三年まで生きた。
次男は海軍大尉で早世し、三男定臨は海軍機関中将にまで昇進した。

湯地家の鹿児島における家宅というのは城下新屋敷の低地にあり、溝も下水もなく、雨が降れば常に浸水するという建坪十五坪ほどばかりの陋屋であったというが、明治五年十二月、一家が東京に出てきて買いとった赤坂榎坂の屋敷は旧幕臣松平日向守の旧邸であった。
敷地は二千坪以上あるであろう。旧幕臣にかわって彼ら鹿児島系官員は東京における新しい山手階級を構成した。
湯地家もそのうちの一例であり、長州閥に属する乃木家もそのうちの一例である。

お七と乃木希典のあいだに縁談がおこったのは明治十一年の初夏の頃である。
希典は当時陸軍中佐であり、すでに前年に西南戦争が終了し、彼は東京へ呼び返され、歩兵第一連隊の連隊長に補せられていた。齢三十という若さであった。隊務が終ると連夜、柳橋、築地、両国の料亭に入り浸っていた頃であり、酒席では放歌喧騒し、帰宅するころは常に前後もないほどに泥酔していた。しかし、軍部ではむしろそういう彼に好意を持ち、西南戦争における軍記喪失事件の罪の呵責を酒で韜晦 (トウカイ) しようとしているのだろうと解釈し、同僚や下僚たちも当然そう見た。乃木にはどこか人の庇護意識を刺激するものがあるのであろう。
----- 乃木の自責は、ほとんど病的である。ひょっとすると、東京で自殺するかも知れぬ。
と、彼の僚友の児玉源太郎などはしきりと言い、陸軍部内でも語り、乃木のこの当時の副官である伊瀬地好成大尉にも、乃木の挙動に注意を怠るな、と耳打ちした。
副官伊瀬地はそのように務めた。伊瀬地は自分の上官が熊本で何度か自殺を思い立ち、そのつど児玉から力ずくに制止され、ついに一時山中に失踪して断食死を企てたこともあるという話を聞いていた。伊瀬地のそういう知識が、かれの乃木希典中佐を見る目を劇的にした。
劇的といえば乃木希典はその生涯自体が常に劇的要素に満ちていたが、しかし乃木自身がそうである以上に彼を見るまわりの人々の目がいっそうにその風姿を劇的に仕立てようとした。伊瀬地もその一人であった。

『司馬遼太郎全集・「殉 死」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ