〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/08 (木) 両 雄 対 面 (六)

家康は、相手の笑顔に吸い込まれそうな魅力を感じながら、しかし、咄嗟とっさ に笑い返せなかった。
不意打ち・・・・と言って、これほど妙な不意打ちはなかった。秀吉が京にいるとは茶屋も言わなかったし、長秀も言わなかった。べつに大坂にいるのかとただしたわけではなかったが、京にいるものとは思っていなかった。
二十七日に大坂城で対面・・・・そう日程を聞かされたときから、家康は、京での秀吉を意識の外へおいていた。
その秀吉が、いきなり目の前へやって来て突風のように、にわか雨のように、あたりの空気を引っかきまわし、当然、作左衛門のことでカンカンになっているものと思い込まされていた家康に、溶けるような表情で笑いかけて来ているのだ・・・・
「徳川どの、よう来られた!」
秀吉がいきなり家康のわきにやって来て、床の間を背にしてどっかと坐ったときには、あたりはまた、眼まぐるしいほど小波さざなみ 立っていた。
秀吉が、いきなり、ここへ通ったと知って、あわてて追いかけて来る小姓たち、敷き物をささげる者、灯火をささげる者、家康の家臣たちを案内にやって来る者、引き返す者、入る者・・・・
その間で家康は、別室へ退るべきかどうかと案じ顔にさしのぞく本多正信の視線に、
(── 案ずるな。言うままにせよ)
眼顔で答えただけで、あとは秀吉の描き出す波紋のままに任せていた。
「おお、こなたも別室で休んでよいぞ・・・・」
秀吉はたった一人家康のうしろに太刀をささげて残った鳥居新太郎を見やって、
「ワッハッハッハ・・・・そうかそうか、よしよしこなたは徳川どのの腰巾着こしぎんちゃく か、巾着は離れぬがよい。離れるには及ばぬぞ」
大形に手を振って笑ったときには、なるほど一座へは、秀吉と家康と、鳥居新太郎と、そして秀長の四人になっていた。
「宰相、おことも一緒に・・・・と、言いたいがも、わしは徳川どのと二人っきりで話がしたい。膳部は二人だけにして・・・・いや酌人はいらぬ。わしが手ずから注ごうわい。すぐにそのような指図をな」
追いたてるように秀長をうながして、改めてまた家康に向き直った。
「さ、これでやっと二人っきりになれたわい。のう左京大夫さきょうのだいぶ ・・・・」
家康は茫然と秀吉の動作を見まもっていて、このときはじめてハッとなった。
左京大夫はこのとき家康に許されている職名で、関白とは及びもつかぬ従四位相当の官位に過ぎない。
秀吉はそれを知って言ったのに違いない・・・・とすれば、この突然の来訪も、あの笑いも疾風のような取りなしも、みなあらかじめ計算された演出であろうか・・・・?
と、思ったときに秀吉はまた笑った。
「これは余計なことを言うたわい。左京大夫も、関白もない。今日のお身とわしとは裸の兄弟、ただの男と男であったわ。いや、それにしてもよう来てくれた! 二人が会わぬとのう、天下にあれこれ、つまらぬ中傷の噂が飛んで困りものじゃ」
家康はまだ打ち解ける余裕もないまま、秀吉の前へ丁重ていちょう に頭を下げた。
この場合、何と言っても白々しく感じられ、すぐには口がうごかなかった。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next