「お館さま、なぜ黙ってでござりまする。この新太郎の考え方、まだまだ未熟と仰せられまするか」 「されば、のう・・・・」 「父から祖父のことをたびたび聞かされておりまする。武人の勝負はその時々よりも平素にある。平素に油断のないのが第一の心構えと」 「・・・・・」 「いや、家風というは一代にしては成らぬもの。きびしくふだんに培
い伝えよと、これが祖父の口癖
だったそうにござりまする。幸いわが家はここ三代お側はなれず・・・・この新太郎のみ、大切なご上洛のお供が出来ぬとなりましては祖父に合わせる顔がござりませぬ」 憑
かれたように言い立てられて家康はぐっと胸が切
なくなった。 若者の心の一途
な美しさよりもその背後にある伊賀守
忠吉や、彦右衛門
元忠の庭訓
のきびしさが胸をえぐって来るのである。 「新太郎」 「お許し下されまするか」 「そちは、三河武士の心構えを京大坂へ見せに行くと言うのじゃな」 「はいッ、それが後々まで、秀吉に侮
られぬもとにもなろうかと」 「ハハ・・・・そう言われては連れて行かぬとも言えまい」 「お連れ下さりまするか!?」 「よし、連れて行こう。その代わり、われらと秀吉方との間に、どのような話が交わされようと、それにいちいち顔色を変えては相ならぬぞ」 「はいッ」 「よいのう、いつもどっしりと、巌
のように控えておれるか」 「巌のように・・・・しかと、お約束しまする」 「よしよし、今のそなたの、その言葉、祖父
の伊賀がどこぞで聞いて笑っていよう。用は済んだ。心の支度ものう・・・・わしも休む。そちも休め」 「はい。では、お館さまの寝息が聞こえましたら、火の元を見廻って休ませていただきまする」 「ハハハ・・・・堅いこと堅いこと。よし、では、そちの思うままにするがよい」 すでに時刻は子
の刻
(十二時) 近い。 シーンと静まり返った城内に物音はなく、遠く能見
のあたりで犬の遠吠えがするだけだった。 家康は立ち上がって、ゆっくりと背伸びをし、それから燭台の火を吹き消して床に入った。 浜松を居城にしてから十六年目。 久しぶりにやって来た岡崎城の秋のしじまが、そのまま無数の声となって話しかけて来るようだった。 信康
の声。 築山
どのの声。 徳姫
の声。 石川数正の声 そして、それらの声の間を、ちらりとかすめてすぎるのは、浜松城へ残して来た朝日姫の面形
だった。 朝日姫には、家康はまだ手はふれていなかった。大坂からついて来た女たちは、それを、いま妊娠している愛妾
お竹の方のせいにして、しきりに怨嗟
を浴びせているが、そのお竹の方と朝日姫と、家康と秀吉、いったい誰が仕合わせで、誰が不幸なのであろうか? そんなことを考えながら、しかし、家康はすぐに眠った。やはり彼は健康なのだ・・・・ |