〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/19 (土) 時 世 の 流 れ (八)

茶屋は蕉庵を訪問してよかったと心から思った。
彼のものの見方の中には、いつも過去と現在の動きの中から、次に来るものを的確に予想して身構えさせるものがあった。
これまでも、ほとんど茶屋は、蕉庵の言葉を提灯ちょうちん 代わりにかかげて歩いて、大きくまと をはずれたことがない。
「なるほど、よく分りました」
「分ってくれたら、あまり気になさらず、告げよと言うて来られたことだけ知らせてあげるがよい」
「しかし・・・・」
「しかし、何か、まだお気にかかりますかの」
「関白殿下の方から、仕掛けてゆくことは万々ばんばん ないと、納屋さまはご断言なさりまするか」
「茶屋どの」
「はいッ」
「よろしゅうござるかの。堺は唐天竺からてんじく から南蛮の果て、遠くヨーロッパまで通じておる町でござるぞ」
「それは・・・・分っておりまするが」
「それゆえ、堺の町人は世界の町人じゃ」
「なるほど」
「その世界の町人が、時の流れをじっと見つめて、この人に日本の天下を・・・・と、思うて推したのが関白じゃ。この意味をもう一度味わい直してご覧なさるがよい」
「は・・・・」
「この味わいは無限でござろう。関白のお側へはゆねに堺の町人が、関白の眼を世界へ向けさせるようおもり役を果たしている。少し自慢めくがの、関白をお育て申している者に、関白の心の分らぬはずはござるまい」
茶屋は相手が、余に淡々と大きなことを言い出して来たので再び、ぐっと全身を堅くした。
「関白が、かりに徳川どのと事を構える・・・・などと申しても、養育役が許しませぬ。ただ今はそのような時ではない! 一時も早く九州を平らげて、あの地に続々と世界への出口を作ってゆかせねばならぬ時じゃ。さもないと日本人は、この小さな島に閉じ込められて、四方の海にこぼれ落ち、魚の餌食えじき にならねばならぬ時が来る・・・・遠い将来にの・・・・そのような大切な時ゆえ、関白どのが攻めると言うても、世界の町人、堺衆が攻めさせぬ! そう思うて下されて、決して間違うことはないのじゃ」
そこまで言って、蕉庵は、自分でもテレたように額を撫でて笑っていった。
「ハハ・・・・これはとんだ釈迦に説法をしてしもうた。茶屋どのご自身が、眼の色変えて寸地尺土に執着し、斬った張ったで過ごす武士の暮らしに愛想をつかし、町人になられたお方であったわ。のう茶屋どの、せっかく町人になったからには、このくらいの、大きな気宇きう を抱いて生きようではないか。のう」
茶屋四郎次郎は、しばらくまじまじと上品な蕉庵の顔に見入って言葉もなかった。いま日本に、関白秀吉を、わしらが育てている者ゆえ、勝手なことなどさせるものかとうそぶける人間があろうとは・・・・
(そう言えば、秀吉はあるいは堺衆の大番頭なのかも知れない・・・・)
しかし、それをもし秀吉が知ったら、どうなるであろうか? それを想うと、返事の言葉よりも先に、わなわなと全身が震えだしてゆく茶屋であった。
「話が済んだら、あちらへ参りましょうかの、女どもも待っている」
蕉庵は淡々と茶屋をうながした。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ