〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/14 (月) 犠 牲 の 風 (八)

「では承知のうえで北条父子に不信をすると仰せられまするか」
こんどは作左の眼がおどろきの色に変わった。
「おかにも、承知のうえじゃ。わしが黄瀬川を渡っていったら、北条父子は、家康がとうとう父子に降参したと、子供のように喜ぼう・・・・あの父子はその程度に他愛ないもの。しかしそれをまだ秀吉は知っていまい。やはりかん 八州を、がっしり押えている名家のいしずえ は、日本屈指の堅固さと信じている。それゆえここでは家康が出向いて行かねばならぬのじゃ・・・・」
そもまで言って、家康もまた、
「仮に・・・・」
と、深い暗示を言葉の裏にからませた。
「数正が、しなたの言うような忠義者であったとして・・・・そうした家臣の心に応えるためにも、家康が、空しく坐視していては済むまい。ここでは、でき得る限りのことはせねばならぬ」
本多作左衛門は、しだいに顔を垂れていったと思うと、そっと右手の指で目頭めがしら をおさえた。
おそらくは彼はこの時、数正の顔が瞼に迫ってたまらなかたに違いない。
「殿! そのお話はもう止しにして下され」
「分ったか作左にも」
「気が滅入る。殿はやはり、天下のために忍んで頭を下げさっしゃるのじゃ。家臣のためなどではない!」
「むろん意味はひとつじゃぞ」
「殿が、そこまで考えておわすのならば、何の作左に不満があろう。殿が忍ばっしゃるだけ、作左もまた、内の団結を固めるために働くまでじゃ。では殿! 作左はすぐに岡崎へ発ちまする」
「そうしてくれ」
「そして、岡崎の者を片っぱしから叱りつけてやりまする。内応者の出奔を知らずにいるとは何事ぞ。うぬらの眼が見えぬは、心のゆるみの及ぼすところと、叱りつけてやりまする」
そう言うと、作左は、ペコリと頭を下げてそのままその場を ち上がった。
まだ瞼には、妙に押しかぶさってくる来る涙が乾き残っていた。
家康の言葉から、改めて連想されて来た数正のまぼろしは、消そうとすればするほどかってはっきりと見えて来るのだ・・・・
(数正・・・・おぬしは、仕合わせなのか、それともひどく不幸なクジを引き当てたのか・・・・?)
家康は数正の心事を察している。その意味ではひどく仕合わせな人間とも思えるのだが、しかしそれはどこまでも家康ひとりのことであって、家中の者からは、永久に裏切り者とさげすまれよう・・・・その点では、やはり不幸な犠牲者に違いなかった。
(許せよ数正! わしはこれから、いちいちおぬしの名を挙げて罵る。おぬしの偉さが凡俗を超えていたゆえ招いた不幸じゃ・・・・その代わりわしも・・・・この作左も・・・・いつかおぬしに告げよう、世の常の栄達の外に立つ・・・・仕合わせなどは望むものか。男一匹、決しておぬしには負けはせぬぞ・・・・)
大玄関へかかってゆくと、作左は小者の揃える草履ぞうり をもどかしげに突っかけて、そのまま朝の光の中をわが家へ急いだ。
樹々をわたる小鳥のさえずりが、まだ活きいきとつづいていた。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ