「あっぱれじゃ。一突きしたぞ藤五」 「うぬッ、裏切り者めッ」 「たわけッ。二度突くな。それより先に危急を知らせ岡崎へ。さなくば、おぬしは、うろたえ者の名を取ろうぞ」 しかししのとこには野々山藤五郎は、もう一度馬ごと数正にぶつけるような勢いで二度目の槍を繰り出していた。 カランと音がして、槍は虚空へはねあげられた。 と、その瞬間に、 「ご免!」 ダダッと双方の馬が足掻
き交わした寸隙
を縫って、野々宮藤五朗は矢のように東へ向けて疾駆しだした。 「追うな。道を開けよ。通してやれ」 数正は刀を鞘
に納めながら、うしろへ向かってどなってやった。二人の小者は、いつの間にか左手の畑へのがれて藪蔭に姿を消している。 「康長、あっぱれだったの」 「はい」 「一突きだけで意地は立つ。それを、あやつめ二突き突きかかって駆け出した。あの気概がある限り三河武士はひけを取らぬ」 そう言ってから数正は思い出したように笑って馬首を立て直した。 「ハハハ・・・・こんどは、その三河武士の敵に廻る身であった。褒めてばかりもおれぬわい。さ、参ろうぞ」 行列はまた康長を先頭にして歩きだした。 見つけた者が東へ向かって掻け去っているので、再び襲いかかられる心配はあるまい。 康長はそのころから、しだいに父の心が、はっきりと分っていった。 彼は、密着するように自分のわきについて来る末弟の半三郎が、 「なぜ斬らなかったのですか兄上」 息をはずませながら訊ねるのに、 「それが半三郎にはわからぬのか」 と、訊き返したあとで、あわてて語尾を濁していった。 「強くて斬れなかったのじゃ。いや、追いかけて手間取っていられる旅ではないからの。女子供が大勢いるゆえ」 「惜しいことをしましたなあ」 「うん、素早い奴であった」 言いながら父を振り返ると、馬上の父はまたまっすぐに月を見上げて、静かに鞍
に揺られている。 がっしりと高い鼻梁
だけが白く光って、能面のような無表情な父の顔であった。 (こうして故郷を捨ててゆく・・・・やはり父はお館さまの許しを得ているのに違いない) もしそうであればあるほど、これはうかつに口外できる事ではなかったと、改めて気づいてゆく康長だった。 「あ、見えて来ました鏡川が」 しばらくして康長はまた父を振り返って大きく言った。 馬上の父が、彼よりも早くそれを認めているであろうと思いながらそれを告げずにいられなかったのだ。 「黙ってすすめ。川の向こうには迎えの提灯
がいっぱいに見えているわ」 耳を澄ますと、もう流れの音まで聞こえて来そうな距離であった。 |