〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/07 (月) 女 関 白 (十一)

「寧々よ、わしは眼が開いたぞ」
秀吉が、いつもの癖で誇張たっぷりに話しだすと、寧々もまた少女のような媚でこたえた。
「嘘ばっかり・・・・何もかも上様はお気づきなされておわすくせに」
「そうではない。わしは心で家康を怖れていた。怖れていたというのが当たらなければ、少なくとも自分と対等の、油断してはならぬ男と思うていた。それがそもそも誤りであったよ」
「上様と徳川どのとでは比べものになりませぬ、外の形は似ていても、銅の銚子と、紺の銚子ほどの違いはござりまする。さ、もう一献いっこん 召しませ」
「いただこうとも! うまいのう寧々」
「はい、寧々は仕合わせでござりまする」
「いやいや仕合わせはなはこのわしじゃ。わしは故実を調べさせての、こなたに、女子で最上の階位を下さるよう禁裏きんり へお願いする気じゃ」
「もったいない。寧々はこれでたくさんでござりまする。ただ上様こそ、この上とも、踏みとどまることなく、ぐんぐんお進みなされませ」
「分った! 分った!」
そう言うと、秀吉はホッとしている侍女たちに悪戯いたずら っ子そのままの眼を向けて、
「わしはな、もはや日本の総大将になった。これからはの、家康も成政も、元親もとちか もみな家来にし、その家来どもを引き連れて唐天竺からてんじく まで出て行くぞ。よいか、政所さまはの、その世界の総大将の御台所みだいどころ じゃ、決して粗略があってはならぬぞ」
生まじめに言われて一同が、
「ははッ」
と平伏してゆくと、さらに煽るような手つきで言い添えた。
「みなみな、よく政所さまを見習うがよいぞ。これこそ女子の中の女子。世界一の女丈夫じょじょうふ じゃ。相分ったか」
その前で寧々は少しもテレた様子はなく、
「何の、わらわなど詰まらぬ女子じゃ。しかし上様のようなお方は千年に一人も出て来ぬお方、お陽さまの申し子じゃ。みなみなそのお蔭で、こうして安穏あんのん に生きられる。このご恩を忘れては済むまいぞ」
言いながら、寧々は、
(この禿鼠・・・・ほんとうに唐天竺まで出向いてゆくかも知れぬ)
と、ふっと思った。
堺衆は熱心にすすめているし、それとなく船も作り出している。寿命が尽きてどこかで果てるまではおそらく夢を追いつづけよう。
しかし、それでいいのだ ── と、寧々は思う。その自信がなければ、力の比較だけを考えて来ている今の大名たちはおさえ切れまい。彼らは、屈服すればよい家臣であったが、隙を見せればみな敵なのだ・・・・
秀吉はかなり酔って来たようであった。酔うとはげしく首を振るいつもの癖が目立って来た。
「上様、もはや、ご寝所へわたらせられませぬか。加賀のつぼね が、おわたりを願うていましたゆえ」
「いや、今宵こよい はよそへは行かぬ。今宵はこなたのもとで過ごす・・・・天下一の女丈夫よ。さ、もう一献注いでたもれ」
寧々はおかしくなってフフッと笑った。やはり彼女も女であった。どこかに嫉妬の糸がまつわりついている。
しかし、それを冷静にかえりみ られる寧々であった。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ