数正は平伏したまま、思わずそっと目頭
を押えた。 数正は家康が必ず自分の意見を容れるののとは思っていたが、まさか予が送るべきところ・・・・そんなことまで口にするとは思っていなかった。 家康にとって、こんどの事は、おそらく腹に据
えかねる、口惜しい事だったに違いない。 戦に勝っていながら、実力の差で押さえつけられる。口では 「天下のため」 と言い 「秀吉がわれらに代わって諸大名を引き受けてくれるもの」
などと言ってはみるものの、圧迫される不快さは、理性では消し得ぬものとよく分っている。 その家康が、数正の意見をそのまま容れただけではなく、 「──
予が直々送って参るつもりだったが・・・・」 と、数正の一歩先へ思案を馳
せての用心深い言葉であった。 それだけではない。 数正は長男の康長
を於義丸につけてやるつもりだったし、秀吉もまたそれを望んでいたのに、家康は二男の勝千代をつけてやれと指図したのだ。 このことの意味は味わえば味わうほど意味深いものがあった。 (長男を取られてのでは、これからそちが、秀吉の手前、いっそう苦しかろうでの) そんなささやきが、さりげない指図
の裏にひそんでいる。 「ありがたき仕合わせに存知まする・・・・」 数正が感情を押えて顔をあげると、 「数正!」 と、作左は、席を立ちながら、 「こんどはおぬしの意見が通った。が、それでわれらの不満が消え失せたのではない。おぬしは軟弱派じゃ。が、徳川の家中には、硬骨
で鳴る者どもが、おぬしの扱いに拳
をふるわして怒っているのを忘れるな」 そう言い捨てて、肩を怒らして出て行った。 それも数正には苦しくもありありがたいものにひびいた。 (ああして作左は、みずから硬派をよそおいながらみんなの不平の堰
になろうとしている・・・・) こうして、本丸の広間に、秀吉の使者、富田左近と津田隼人の両人が正式に案内され、秀吉の書簡と口上を伝えたのは、もはや、あたりが暮れかけてからであった。 はじめそれを受領したのは、本多作左衛門重次と、酒井左衛門尉忠次、それに副役
として石川伯耆守数正も同席した。 そして、続いて家康が出て来て酒宴に移る前に、直接返簡と口上とが告げられた。 ほとんど即答にひとしいこの扱いに、秀吉の使者は、びっくりして顔を見合わせていた。人質ではなくて養子だったなどという詭弁
に、二つ返事で応じたばかりか、 「そのご好意にこたえるため、家康みずから年内に於義丸を連れて参上する。そう申されたい」 あっさりと先手
を打たれたので、何も言うところはなかったのだ。 その夜は五ツ半 (九時) 過ぎまで、主客の間を賑
やかに酒盃がまわり、秀吉の使者は、翌四日の早朝、久しぶりに晴れた青空を仰いで上機嫌で浜松を発っていった。 そして数正が、於義丸出発の打ち合わせのために、本多作左衛b門の屋敷を訪れたときには、すでにそこへ於義丸も呼び寄せられてやって来ていた。 |