〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/04 (土) 小 田 原 進 撃 (十三)

その翌朝、本多作左衛門は薄暗いうちに起き出して岡崎へ戻っていった。
彦左衛門はそれを見送ってから本丸へ出仕すると、本多正信の出て来るのを待ち、二人で家康の前へ出た。
本多正信は、このころ、もはや佐渡守に任じられて、城中では 「佐渡どの」 と呼ばれていたし、家康ももう弥八朗とは呼ばずに 「佐渡」 と呼ぶようになっている。
「どうじゃな佐渡どの、殿のお腹は決まったとご覧なさるかな」
連れ立って御前へ出ながら彦左衛門が話しかけると、
「何がでござるな?」
と、佐渡はとぼけた表情で彦左衛門を見返した。
「言わずとも知れてあろう、小田原征伐のことじゃ」
「さあ、さようのことは、とののご一存にあること。われらではいかんともなり難い」
「というと、殿が小田原方へ味方してもよいと言うように聞こえるが」
本多佐渡はあき れたように彦左衛門を見返したが、そのまま返事はしなかった。
「殿、岡崎の作左老人、昨夜、しれがしのもとへ泊って戻って行きました」
「そうか、そろそろ夜道もできまいでの」
「老体、もうろくいたしましたれば、隠居聞き届けがよろしいようで」
家康は、ジロッと彦左衛門を見ただけで、佐渡に言った。
「関白が、物々しい北条征伐の布令書ふれが きを諸大名に送ったよしの風聞ふうぶん 、まだ、まことかどうか探り得ぬか」
「これはしたり」 と、佐渡は答えた。
「布令書きを下さるは関白のご気性よりしていささかも懸念けねん の余地はござりませぬ。ただその文面がいかがなものかと、それを探っておりますまでのこと」
「殿」
彦左衛門は、無遠慮に二人の会話を中断した。
「この際、殿のご意志のわからぬ輩は、みなそれぞれ隠居申しつけてはいかがなものでござりましょうな」
「な・・・・なに、何の必要があってそのようなことを平助は、わしに指図するのだ」
「これはおかしな仰せよう・・・・三方みかたはら小牧こまき 長久手ながくて の戦とことかわり、こんどのは、勝つに決まった小田原進撃、お家の一大事と覚ゆればこそ申し上ぐるので」
「なに、勝つに決まった戦ゆえ一大事だと」
「いかにも、かようの戦には、今までの年寄りどもの経験は経験になりませぬ。ここらでひとつ、思い切って、年寄り整理をなさってはいかがなもので」
「フーム、また平助めが始めおったな」
「殿にしても上洛なされて、関白の仰せには、いちいちごもっともと服従なさるお心、されば家中の者どもも、何によらずハイハイと殿のご意見に従う者をもっておお揃えなさるが第一でござりましょう」
家康はもう一度ジロリと平助を睨んだが、そのまま佐渡と上洛の用意について話しだした。
こうして家康は予定通り十二月七日に上洛し、秀吉から入れ違いに 「秀忠は上洛に及ばず」 という知らせが届いた。
双方とも、すでに小田原進撃のための微妙な冷戦の駆け引きだった。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ