〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/30 (金) 硬 骨 軟 骨 (三)

作左はまたフフンと笑った。その様子は、時に家康を揶揄やゆ すりようなひびきを持つ。
「一戦せよと言うてする殿か」
「なんじゃと!?」
家康は、再び眼に笑いを取り戻して、
「うぬは、三方ヶ原で戦うた、わしの根性を忘れたな」
「忘れた・・・・」
作左はけろりとしてうなずいた。
「あのころの殿は勇ましかった。が、もはや忘れた・・・・忘れてよいのじゃ。が、殿・・・・」
「何を言おうというのだ。持って廻るな」
「いつか一度は戦わねばならぬ。そのときに位負けせぬ用意はあろうか。殿に・・・・」
「わしになかったら、そなたにあるというのか」
「これはしたり、四十二歳になられた殿に、この作左、なんでいちいち指図がなろうか、ご思案をいかがいにまかり出ました。ただし、ご思案がなければ、これよりわが家へ立ち戻って、腹切って死にまする。面白くもない世に生きているのは飽々あきあき きした・・・・」
家康は呆れたように作左を見直した。
いつも突飛とっぴ な事を言い出すので、それに慣れている気であったが、腹を切るとは少々言葉がはげしすぎる。
じい ・・・・」
「なんじゃ殿」
「こなた誰かと会って来たな?」
「会うたら悪いと言わっしゃるのか」
喧嘩けんか の様な口を利くな。こなた、筑前がこんどの勝利は、わが家の興廃こうはい にかかわる大事と言いたいのじゃ」
「それを殿が手をこまぬいている。こまぬいている間に、向うはさっさと事を運ぶ。わしは、あの猿に いつくばって仕えてゆく殿など見たくはない。それゆえ切腹したがよいかどうかと相談に来たまでじゃ」
家康の眉がピクリと動いた。あまりも暴言に怒りかけたのがよく分る。
しかし、それはただ一度だけで、やがて家康は庭の新緑に視線をうつして呼吸をととの えた。
秀吉に頭を下げて仕える自分を見たくない ── その言葉の裏にあるのは、自分への愛情と信頼だけなのだと思うと、叱って済むことではなかった。
「爺・・・・」
「思案があるのか殿。殿は信長公の生前も、決して家臣ではなかった。三河の親類であった。その殿が、筑前の家来に落ちて行くのは見たくない。これは決してこの爺一人の心ではなく、三河から生死を共にして来た、みんなの肚と思わっしゃるがよい」
「分っている。が、そなたの顔には別のことが書いてあるぞ」
「別のこと・・・・」
「そうじゃ、わしに思案があると見抜いている。それを聞かずにいられぬほど、そなた、年取って性急せっかち になったのじゃ」
「ほう、これは面白い、そこまで分っていたら、その思案をうかがいましょう」
「試案は出来たが、さて、その人選じゃ」
「ふーむ、するとやはり、人を選んで、筑前がもとへ祝いの使者を出すのじゃな」
「祝いの使者は武将同士のつきあいじゃ。そのあとに思案がある。急がずに聞け」
言われて作左衛門はまた意地悪そうな眼で、じっと家康を見つめだした。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next