〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/29 (木) 次 に 吹 く 風 (十一)

「その・・・・使者におもむかれるのが、何か・・・・?」
弟の勝千代が眼を光らして父の顔をのぞきこんだ。
「されば、・・・・その使者、ずっと昔にのう、駿府すんぷ今川いまがわ へ奥方さまと若君を受け取りに参った折の使者よりも、ずっと至難しなん なことになろう」
「な・・・・なぜでござりまする」
「それは、筑前どのが眼の上のこぶ は、やがてご当家になろうからじゃ。わしが筑前どのであっても、ここでは同じことをするかも知れぬ。大きな城を作るゆえ、黄金も、材木も、石も人夫もどしどし出すようにとな」
兄弟は、再び小首をかしげて顔を見合った。
彼らにはまだなかば分って、なかば分っていなかった。
よく分っているのは、父が何か困惑こんわく しているらしいことだけだった。
「そこで、使者に参る折は、その方たちも連れて行こうと思う。連れて参れば、あるいは戻れぬやも知れぬ・・・・が、それでよいかな」
「それは、お父上が、そうせよと仰せられれば・・・・なあ勝千代」
「うん」
と、勝千代はあいまいに答えて、
「それが、仏の道にかなうこと・・・・と、お父上はお考えなさるのですね」
「そうじゃ!」
数正ははしめてわが意を得たという風にはっきりとうなずいた。
「よいか。こんどの事はわしもなかなか決心できなかったのじゃ。しかし・・・・お館は、この数正が馬の前鞍まえぐら に乗せ、生命を賭けて駿府の今川家から救い出して参ったご嫡男、信康さまさえ、家中のために、天下のためには涙を呑んで失われた・・・・わしはそのお心のうちを想うて、ようやく決心したのだが・・・・
兄弟はいつかまばたきを忘れて父を見つめている。
父の口から信康の話が出るときには、いつもその眼がにじんで来るゆえでもあった。
「あのときの信長さまばかりではあるまい。人間は、日本一の城を築いて、その威を天下に示そうとするような時には、どうも鬼神きじん になるものらしい。筑前どのも、こんどはそれをなさる。それだけに鬼神であってもおどろ かぬ覚悟と才覚がなければ、うかとは、こんどの使者には立てぬ」
「父上!」
勝千代の方が先に声をふるわして口を出した。
「行けばよいのでしょうご一緒いつしょ に。そして万一の時には死ねばよいのでしょう」
くな勝千代」
と、兄がたしなめた。
{死ぬか生きるか、そのようなことは父上のご思案にあることじゃ。われらはどこまでも、父上のお指図さしず のとおりにすればよい。黙ってお聞きなされ」
「ウム、それは聞いている。で、そのご使者には、いつ出発なされまするので」
数正は今日もその眼にみじんだ涙を拭いて微笑した。
「それを聞いて安堵あんど いたした。才覚はわれらにある。お館が、もう一度浜松へわれらをお呼びになろう。そこでよくご相談してそれからじゃが、もう遠いことではあるまい。あと、三日か、五日か・・・・」
「では、それまでに、われらも準備を、なあ勝千代」
「はいッ」
数正は、二人の子供を見やって、こんどはのびのびと笑っていった。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ