本能寺で親子水入らずの酒宴が徐々に賑やかさを加えた酉
の下刻 (午後七時) 光秀の軍勢は、保津
の宿から山中をぬけ、嵯峨野へ出て、衣笠山
の麓 にさしかかっていた。 ここまで来ると、さすがに雑兵たちも首を傾げる。中国への出陣ならば、三草越えをするはずなのに、馬首を東へとって老
の山から山崎、摂津を経て行くという。それが老の山へ来るとまたもや右せずに左へ下った。これでは京へ出てしまう。 「道順が少し、違うのではないか。誰か物頭
か大将にうかがって見るがよい」 「そうだ、これでは夜半に京へ入る。大変な遠廻りじゃ」 しかしそのときに、それぞれの侍大将から新しい下知が届いた。 「今夜の軍兵を信長公は京都で閲兵
すると仰せられる。廻り道だがやむを得ない。よってここで兵糧をつかい、武装を厳しく正すこと」 行列は衣笠山を背にして広く左右に散開し、持参の兵糧で腹ごしらえにかかった。 (信長公が閲兵する・・・・) ありそうなことだと思うので誰もまだ疑念をさしはさむ者はない。 ただこのときに、この大軍を見かけて首をかしげた者が、百姓たちのほかに一人あった 京都所司代村井
長門守 春長
の家人、吉住 小平太
だった。小平太は桂川付近の公田の管理をしていたのだが、この軍勢を見るとギクリと胸をつかれた。 (明智勢が、京へのぼろうとする・・・・) 彼はそのまま付近の農家から耕馬をかりてこれに鞭打ち、四ツ
(十時) 近くに堀河の館へ長門をたずねていった。 「おかしなことがござりまする。明智日向守の軍が西へ向かわずに京を指して押し寄せる様子、叛逆の心あるのではござりますまいか」 すると村井長門守は微酔の香を当たりにまき散らしながら笑った。 「とぼけたことを申すな。いまわが君に弓をひくほど、たわけ者があると思うか」 彼もそれまで、源三郎の警護をしていって本能寺で、信長の舞を見て戻ってきたところだったのだ。 「まして日向守どのは、何ものにもかえ難いご恩をこうむっている。もし『京へ向かって来たとて、それはわが君の命あればこそのことであろう」 事の破れるときは必ず何かしらの前兆はあるものだったが、この一語で信長父子の運命は決した。 一方
── 沓掛 で腹ごしらえを終わった明智勢に、光秀ははじめて
「敵は本能寺にあり!」 の真意を告げていった。 「討たねば討たれるゆえ、やむなく右大将の首をいただき、明日より天下に号令することとした。おのおの馬のくつを切り捨てよ。徒歩
の者は新しきわらじ、足半
をはけ。鉄砲の者どもは、火縄一尺五寸に切り、その口々に火をわたし、五つずつ火先をさかさまに下げよ」 「わかったら一気に桂川を押し渡れ。敵は本能寺と二条にあり。今より天下は日向守のものなるぞ。よくよく働き討ち死にの事あるも、子ある者は子を、子なき者は縁者をたずね出し、必ず跡目は継がせるほどに、いざ、手柄せよや」 左馬助の三千七百は本能寺を。 治左衛門の四千余は二条城と妙覚寺を。 光秀の本陣三千は三条堀河にと決めて全軍ははじめて今日を襲う怒涛に変わった。 |