床に入ると光秀は急に梟
と土鳩の鳴き声が気になりだした。 (今はあれらの鳴く季節なのだが・・・・) そう言いきかせてみても、その一つ一つに不吉な連想がまつわるついて、やたらに癇が昂ぶった。 今日嵯峨野の釈迦堂前で得た情報によれば、家康はすでに上洛して今日見物を終わり、大坂へ向けて発ったとのことだった。丹羽五郎左衛門と堀久太郎はすでに備中へ急行し、信長も二十九日には上洛して来て本能寺
に館 する。 ほとんど手勢を持たずに出て来る信長。 (どうやら信長は討ち取れそうだが・・・・) しかしそのあとでただちに経を占領して天下に布告を発すべきか、それとも中国の毛利と結んで秀吉の率いる織田勢を背後から先に衝くべきかが迷いの種であった。 京で天下に布告している間に、秀吉と毛利とを結びつけ、柴田、佐々、滝川らには上杉と結ばれ、さらに徳川勢を迎える羽目になりそうな気がしきりにする。 「畜生!」 梟のうるささに耐えかねて、何気なく声をもらすと、次の間に寝ていた紹巴が声をかけた。 「日向さま、何となされました。悪い夢でもご覧じなされましたか」 光秀はドキリとして全身を固くした。 「何か申したか」 「はい、ひどく寝苦しそうに存じましたが」 「もう、何刻であろうな。筧
の水音が静かになったのう」 光秀はそう言った後で、 「こんどの出征、無事に勝ちを納むれば、いよいよ山陰はわが手に入る。明早朝、それぞれへ寄進のうえ、もう一度必勝の祈願をこめて山を下ろう。休まっしゃるがいい・・・・」 紹巴はそれで黙った。山陰道をわが手に入れる・・・・そにための緊張だったのかと。 翌朝の光秀は案外明るかった。起き出すとすぐに、もう一度大権現に詣で、黄金五十枚と鳥目
五百貫を献じ、西の坊に五十両、亭主はじめ連歌師たちには、それぞれ十両ずつ、別に愛宕山中へとして鳥目二百貫を寄付して、 「さらば、凱旋してまたお目にかかろうぞ」 みんなに見送られて悠々と山を下った。 山を下ると、さすがに光秀は神経質な優柔さは見せなかった。 亀山城へひと足先に帰しておいた長子の十兵衛光慶が、愛宕山で連歌を光慶の名でまき終わったころからおこりにかかり、ひどい熱でうわ言を言っていたが、それすら別に気にかける様子はなく、表面はどこまでも備中出陣と見せ信長襲撃のときを一日の夜半から二日の早暁と決めて着々戦備に没頭した。 戦備終わった明智勢一万一千余が
「中国出発の勢揃え」 を完了し、全軍を三手に分けて亀山城を発進したのは一日の申
の刻 (午後四時) であった。 その一隊は明智左馬助光春を大将とし、四王天但馬、村上和泉、三宅式部、妻木主計らの三千七百。 その二隊は明智治左衛門の下に藤田伝五郎、並河掃部介、伊勢与三郎、松田太郎左衛門の四千。 本隊は総大将光秀が、明智十郎左衛門、荒木山城守、同友之丞、諏訪飛騨守、斉藤内臓介、奥田宮内、御牧
三左衛門以下三千二百余り。 いずれも大将以外は中国遠征と信じきっての進発だった。 |