勝頼は、昌次の辞世を聞いている間に、三たび心が決まっていった。 死にのぞんで、再転三転する自分の心が恐ろしく、ひどく不確かな、信じられないものに思えて来たのだ。 そう言えばこの動揺は逃げまわっている間中、いくたびも持て余した感情だった。 げんにここへ辿りつく途中で、慈眼
寺
のそばを通りかかったおり、 (死のう) と、いったんは、はっきり心に決め、同寺の尊長のもとへ使いを立てて、高野山へ届けてくれるように遺品を托して来たほどだった。 自分と小田原御前と太郎勝信の寿像一幅、それに父信玄がつねに身に帯していた刀一腰、飯縄本尊、対揚法度書
(信玄自筆) 、毘沙門一体 (信玄の具足守) 、小脇差し一腰、大勢至菩薩一幅
(勝頼本尊、小野道風筆) 、観音品一巻、三尊阿弥陀一幅、仏舎利一粒・・・・それに黄金十両を添えて高野山に届けてくれと托した時、もはやどこで死んでも何の悔いもないつもりであった。 それがいまだに、あれを思っては動揺し、これを考えては恐怖する。そして、その動揺恐怖からのがれる道は
「死──」 以外に何もなかったのだと、ようやく納得できかけた。 小田原御前は、あの世での夫婦愛を信じたゆえに潔く死に、多くの家臣は主君に殉ずべきものと信じたゆえに潔かった。 げんに土屋昌次は、深傷
の身で、勝頼の自決を見届けた上で死ぬものと、刀にすがって立ち上がっている。 「お館さま、まだ・・・・まだ・・・・手足は動きまする。南無弓矢八幡!
土屋昌次が最後のご奉公・・・・なにとぞ無事につとめさせ候え」 勝頼は、その声を噛みしめる表情で、そこにあった敷き皮を引き寄せた。 そして心の動きをおそれて、 「昌次、よいかッ!」 と、叱るように声を張って、その上に坐り直した。 「明日は敵の手にわたるわが首、斬り損じて笑われまいぞ」 「心得て・・・・心得てござりまする」 昌次は蹌踉
と立って、勝頼のうしろに廻った。 月はいぜんとして、大きなおぼろの傘をかむってあたりを白く煙らしている。 「もう一度、辞世を・・・・辞世の切れ目で介錯せよ・・・・おぼらなる月もほのかに雲かすみ、晴れて行くえの西の山の端」 そう言うと、勝頼はガッと小刀をわが腹に突き立てた。 それでもまだどこかで生命は生きる道を求めて騒いでいる・・・・ 「うけたまわってござりまする」
と、遠くで昌次の声がした。 「おもかげの、身をしはなれぬ月なれば、出ずるも入るも同じ山の端。たッ!」 昌次は残った力のすべてをこめて一太刀ふると、そのまま、だッと前へのめった。 そして、そこに半ば首を斬りはなされて倒れている勝頼の屍体のあるのを手さぐりで確かめて、はじめて大きく子供の名を呼んだ。 「小四郎!
父も参るぞ」 もう坐り直す力はなかった。倒れまま切っ先を口に含んで体ごと大地へ叩きつけた。 これでこの高原に動く人影は全く見えなくなっていった・・・・
|