高天神の城が陥落するころ、勝頼は三島に出撃してきた北条氏政の軍勢三万あまりと対陣して、攻めるも退くもできない羽目に立ってあせりきっていた。 いや、勝頼自身は、ここでも進んで北条勢に決戦を挑もうとしたのだが、従弟
の信豊 と長坂釣閑の、諌言というよりもむしろ、手酷
しい反対に出会って、沼津
に高坂 源五郎
をとどめ、興国寺
、戸倉 などの防衛を命じて、いったん兵を引かなければならなくなってしまったのだ。 このころから、駿河にあった穴山入道梅雪も、 「──
今は、いったん戦意をおさめて兵を養うとき・・・・」 と、しきりに諌言して来るのである。 そしてその結果が高天神の城の失ら陥落となり、天正九年
(1581) はついに勝頼の生涯で長篠敗戦に次ぐ、焦慮
の年となっていった。 これこそわが敵 ── と、はげしい憎悪の対象が、織田、徳川、北条と三氏にふえ、それが三方からじりじりと彼の領地を侵蝕
して来るのである。 勝頼はその三面作戦の三方で、ことごとく善戦しようとするのであった。というよりも、すでに三面に迎えた、敵のいずれとも妥協
できない、せっぱつまった憎悪が彼をとりこにしていまっていたといった方がよいかも知れない。 戦略上の問題よりも、それよりもむしろ、彼の心の問題だった。 こうなると、支配下への諸将への出兵要求は当然過酷にならざるを得ず、それが加速度的に領民の疲弊
を深めた。 しかし、その焦慮の年が暮れ、天正十年の新春を甲府で迎えた勝頼は、まだ闘志にみちていた。 冬の間に兵を休め、陽春ともなれば、越後の上杉景勝と結び、石山
(大坂) 本願寺の徒を動かして、充分にわが憎悪を三面の敵に叩き返せると計算していたからだった。 しかしその計算は敵側にもあった。 敵側の恐れるのは、天嶮の甲州へ引っこもり、悠々
と民を養って満を持す勝頼だった。 新羅三郎以来、連めんとしてこの地に武田家が続いて来たのは、彼らが中央の覇者などを思わず、しだいに実力の蓄積を計りながら、しっかり大地に根を張っていたからにほかならない。 それだけに何とかして勝頼を遠く誘
き出そうというのが、敵の計画だったが、焦慮の勝頼には、それは的確に感じとれていなかった。 こうした事情の中で、勝頼が、木曾
の福島城 にある木曾左馬頭
義昌 が、織田家に寝返ったという知らせを受け取ったのは、二月
(天正十年) のはじめ。 八方へ放してあった目付の一人から、 「たしかい織田家へ、左馬頭より密使を送ってござりまする」 そう言われたとき、勝頼は手もなく敵の術中に陥てしまった。 すでに、その時期が来ていたのかも知れない。 「なに、左馬頭が、この武田家を裏切ったと・・・・」 彼はいきなり癇筋を額に見せて、 「よしッ、陽春になってはあとがうるさい。今のうちに叩き潰そう」 つつしが崎のわが居間で、近臣も遠ざけずに言い放った。 木曾義昌は、義仲
十四世の源氏であり、勝頼にとっては妹婿に当たっていた。 |