日のあるうちに小栗大六は浜松を発った。 家康の方から、わが子三郎信康に不都合のかどがあるゆえ処分するが、止めてくれるなという手紙をたずさえて・・・・ そしてそのあとで家康は、はじめて奥平九八郎と、続いて帰り着いた酒井忠次に対面した。 忠次は家康の顔を見ると、 「殿!この忠次、年甲斐もなく織田の館
にいっぱい喰らわされました」 まっ蒼な表情でそう言ったが、家康はすでにうなずくばかりであった。 「すぐ後から織田の館の使者が参りまする。その者の持参する不審状の中に、忠次はじめ、重臣どもが若殿への不満を訴えたとござりまする」 そのときも家康は、 「そうか」 と答えただけであった。 外交に慣れない素朴な忠次や忠世が、信長にそのような下心があるとも知らず、三郎信康への不満をもらし、そのあとで愕然
としているさまが見えるような気がした。 「実はの、わしもあれこれ考えて・・・・」 と、家康は言った。 「三郎めは岡崎から追うことにした。何よりも父のわしをないがしろにする。このままでは家の将来が案じられるでの」 若い奥平九八郎は、じっと家康を睨
んでいたが、酒井忠次は、面を伏せて、悄然
とうなだれていた。 自分たちの失言を全身で恥じている。といって、その底にはやはり、嘘を言ったのではないという一種の誇りの見てとれるのが、家康にはたまらなかった。 「よし、九八郎は長篠へ、忠次は吉田の城へ戻って、油断なく甲州勢に備えるよう」 九八郎はついに一言も家康に物を言わずに浜松を去って行った。 こうして家康が信長の詰問状の到着を待たずに浜松を出発して岡崎へ向ったのは八月一日であった。 その日は秋の匂いの濃い小雨が大地を示していて遠州灘
の潮騒がひどく間近に、おどろに聞こえていた。 家康は本多作左衛門と、作左の用意してあった二百人の手勢をひきつれて馬で城を出ると、作左衛門をかえりみて半ばあざけるようにつぶやいた。 「作左、ここから岡崎へ兵を引き連れて攻め入ろうとは思わなんだの」 作左衛門は顔をそむけて、 「攻め入るなどと、妙なことは、おっしゃりまするな」 「いいや攻め入るのじゃ」 と、家康は手綱をくりながら、 「日本のために、生かしておけぬと言われる右府の心を汲んで、わが子の城へ攻め入るのじゃ」 「そのようなことは聞きとうござりませぬ」 「わしも言いたくない、言いたくないが、それが事実なのだ・・・・作左、油断すまいぞ。二人でな、初陣の日のように用心深く、気を引き緊めて、必ずおくれを取るまいぞ」 作左衛門はそれを聞くと、自分から馬首をめぐらして行列の後ろへ離れて行った。 そう言えば、あの一途な三郎信康、あるいは、信長の不当を鳴らして、父と一戦する気にならないものでもなかった。 城下をはなれると雨はだんだんはげしさを増して来た。
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