忠次と信昌がさがっていって、四半時もすると、次の間で野太い作左の声であった。 「殿、入ってもよろしゅうござりまするか」 「作左か、入れ」 作左衛門は昨日とは打って変わったもの静かな動作で入って来ると、木綿
の袴をなでるようにして坐った。 今日は昨日ほど風がない。開け放してある庭の青葉が、強い陽射しに息をひそめているようだった。 「殿、もはや事は決着しましたなあ」 「使いは無駄だったというのか」 「ただ今、両人を見送って参りましたが、左衛
門尉 、はじめから弁疏
の心はござりません」 「わしにもそう見えたが、やはり・・・・」 「まさか、あれだけの男が、女子
の怨みで、あらぬことを口走ったとも思えぬが、何か三郎さまへの不平を自分で漏らしたのかも知れませぬなあ」 「なに、女子の怨み・・・・とは、何のことじゃ」 「徳姫さまの腰元で、おふくという三十女がござりました。これに左衛門尉が想いをかけて、徳姫さまに乞うて貰いうけ、吉田の城にござりまする。これを三郎さまが後に知って、忠次を呼び寄せ、若御台の前で、ひどく罵りましたそうな」 家康は舌打ちした。それもまた家康の耳に入っていない。 「昨年初冬の戦の折は陣中で口論しておりまするし、これはあるいは左衛門尉が、信長めの決心を固めさせる原因になっているのではないか・・・・と、この年寄りは思いまする。さすれば、弁疏したとて通らぬことを始めからよく存じているわけ・・・・殿、もはや一戦せよなどとは申しませぬ。事はすでに決着と、お心決めさせられまするよう」 家康はじっと作左を見返したままうなずきもせず、答えもしなかった。 (たしかに作左の言うとおり、これは無駄な使いであったかも知れぬ・・・・) そう思うあとから、 (これでよいのだ、これが親の迷いなのだ) とも考え直した。 奥平九八郎をつけてやったのは、どちらも婿と、信長の感情に訴えたい気持ちからであったが、忠次に弁解できない事情があるとすれば、これも未練な愚痴になった。 「殿、このうえは、何も申しませぬ。ただ、無念でござりましょうと、申し上げるばかりでござりまする」 「作左、案ずるな。家康はな、取り乱して堪忍
を忘れはせぬ」 「この年よりも、人の一生にはこうした事もあるものかと、しかと胆
に刻んで置きまする」 「しかしのう作左」 「はいッ」 「忠次に弁疏のこころがなかったと、人には決して洩らすでないぞ」 「はいッ」 「それにしても、大きな雷が落ちたものよの作左」 「はいッ、昨日はこの年寄りまでカーッと逆上しかけました」 「考えよう。家中を紊
さず、信長どのに笑われぬよう、よく考えて処置しよう。喬木をねらうは風ばかりではないとよく分った」 作左は、何を思ったか丁寧に両手をついて家康に頭を下げた。
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