2011/07/20 (水) 緒 戦 (十五) |
敵のこの大袈裟な作業を見つめているのは決して九八郎一人ではなかった。 この天嶮を征服して、いきなり野牛門を破ろうという甲州勢の計算は一見はなはだ無謀に似て無謀ではなかった。 ここからもし敵を城内に入れるようなことがあったら、緒戦から味方はその信念を叩き潰されてしまうのだ。 誰も彼もが、ここだけは渡れるものかとたかをくくっていたのである。 「ああ続々と渡って来る。殿!」 と、また誰かが言った。 九八郎は石のように動かない。 彼にしても、これは全く思いがけないことであった。この敵が野牛門に仕掛けて来るころには、東、西、北と、外の敵も、必ず動き出して来るに違いなく、はやりきっている味方は、彼の命令ありしだい、すぐにも斬って出るであろう。が、もしそうなると緒戦から大乱戦になってゆき、勝負はせいぜい二、三日で決してゆく。 (あせるなッ!) と、九八郎は自分を自分で叱っているのだが、その苦悩は決して外へ見せたなならないときであった。 「ハッハッハ・・・・」 敵の先手
が、こっち岸へ渡りついたとき、九八郎ははじめて大声で笑っていった。 「鉄砲隊を、これへと申せ」 「はッ、弓勢は」 「いらぬ。これで勝ったわ。ワッハッハ」 敵は岸に上がると、いきなり崖
に熊手をかけたり、綱を投げたりして岩壁を登り出した。 そうした動作は甲州勢のもっとも得意とするところであり、やがて二本の生命綱
が垂直に中腹の足がかりまで登り口を作っていった。 「殿! もはや敵が・・・・」 「待て待て」 九八郎はかるくおさえて、うしろへやって来て待機している八十挺の鉄砲隊をかえりみた。 「よいか。あの綱一本に三十人ほどがすがって来たら、二発打つのだ、一発は上からまっすぐ全的に射よ。一発は綱を切るのだ。おびえて的を外すでないぞ」 そう言いながら、狙いの外れた場合のために、一本に三組ずつ火縄の点火を命じていった。甲州勢は城内が意外なほど静かなので、中腹のくぼみで綱がかかると、すぐさま九八郎の予想通り、次々にこれにすがって登り始めた。 「さ、よく狙えよ」 九八郎は大きな声も出さずに、サッと片手をふっていった。 そろそろ靄が晴れだして、奔流をはさんだ渓谷の片側に、あざやかな朝の陽があたりだしている。 ダダダーン! 銃声と同時に、二本の綱はみごとに切れた。しかも谺
はこだまを呼んで、さながら百雷のとどろくよう。 双方へすがって登りかけていた人々は、ようやく岸へ辿
りついた味方の頭上へなだれを打って転落
していった。 ワーッと悲鳴が下からわいた。 九八郎はそれを、じっと見つめながら、 「大事な弾丸じゃ。あとは射つな」 と、低い声で手を振った。
| 「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ |
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