信長は岐阜千畳台の大広間で、いま、上杉謙信からの使者、山県
秀仙 のために酒宴をもよおしてやっていた。 すでに覚悟はしていたことであったが謙信からの使者は、信長の不信を憤った問責の使者であった。 この年
(天正二年<1574>) の三月、またしても遠州へ兵を出して来た武田勝頼は、これに立ち向かおうとして家康が、駿河の田中城まで出て行くと、何を思ったのか急遽
甲州へ引き上げてしまったという。 謙信はこれを、自分が雪深い信州へ出て行って、織田、徳川両家の後詰めをしてやったからだと言って来た。したがって信長も約束どおり美濃で行動を起こし、甲州勢に攻めかかるべきであったのに、一向兵を出さなかったのは無礼千万である。 そのように信長が約束を守らないならば、両家の同盟は破棄するよりない。いったい何を考えて兵を出さなかったのかという問責なのである。 信長は使者の山県秀仙に、決して他意はない、まだ近畿に事多く、それに中国、四国の風雲もただならぬものがあったゆえ兵を出し得なかったのだが、この秋には必ず出す・・・・謙信の怒りをしずめてくれるようにとくれぐれも頼んだあとの酒宴であった。 秀仙は、どうやら信長の陳弁を納得したらしく、今日は晴々とした表情で盃をあげている。 「わが殿は、ご承知のように義には金鉄のお方でござりまする。それゆえ、約束を違
えたとなると烈火のように憤られまするが、その代わり、頼りになるお方と存知まする」 「いや、よく分っている、分っていながら怒らせたのは、信長の落ち度、よくよく事情あってのこととこ推察下され」 信長はそう言いながら、しきりに使者に酒をすすめて奥へ退いた。 謙信は憤りの発するままに憤って来た。しかし信長は、必ずしも自分が悪かったと思って詫びたのではなかった。 (やはり越後は越後・・・・) と、どこかで軽んじている信長だった。 信玄の生存中には謙信と結ぶよりほかはなかったが、勝頼の代ともなれば事情はかなり一変している。ただ謙信と事を構えて争うことさえしなければそれでよかった。 (謙信入道、勝頼を買いかぶってござる・・・・)
そう思っているので、表面は歓待の限りを尽くし、謙信の怒りを解こうとつとめながら、内心ではそれほど問題を大きく考えてはいなかった。 「やれやれ、くたびれたわ。気骨
の折れることじゃ」 奥へ通ると、信長は濃御前に手伝わせて衣類を着替えながら、 「汗を拭け」 と、両手を小姓たちの方へ差しのべた。 濃御前は気に入りの蘭丸
が、甲斐甲斐 しく信長の体を拭いてゆくのを待って、 「申し上げたいことがござりまする」
と、声をかけた。 「内証話か。こなた相変わらず用心深いの。よし、みな退れ。奥が何か甘えることがあるそうだ・・・・」 そういうと、そのままその場にあぐらをかいて、 「何だお濃・・・・」 二人きりになると、昔ながらの悪童じみた信長だった。
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