〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/03 (日) 落 花 の 匂 い (四)

織田勢も波の寄せるように。入れ代わり立ち代り赤尾曲輪を攻めたてた。
そして、その一波が寄せるたびに、浅井勢の損害は目立った。討ち死にする者、傷ついて捕虜となる者、逃亡を企てる者、降服する者・・・・
浅井長政は、そうした混乱の中を、居間へ引きあげると、
和尚おしょう はおられぬか。和尚をこれへ」
よ呼び立てた。
今日も地上に争いをよそにして、秋の空は無限に澄んでいる。微風にさらさらと萩がゆれて、季節はずれの蝶が一つ、のどかに飛んでいた。
木村太郎次郎が、長政の帰依きえ している雄山ゆうざん 和尚を案内して、あわただしく入って来た。刀の柄のべっとりと血のりがついて、左の股を白い布でしばっていた。
「おお和尚か。もはやこれまで」
長政は微笑して耳をすました。
「三度討って出たゆえ、もう切腹と敵の方が察している。打ち寄せる声がやんだようだの」
御意ぎょい のとおり」
と、木村太郎次郎は答えて、
「お心静に、ご介錯はそれがしがつかまつりまする」
長政は無造作にうまずいた。
雄山和尚は、そうした二人を見るでもなく見ないでもない様子で、長政の脇に坐った。
「姫たちには奥方がついておられまする。何かほかに申し残されることは」
「べつに」
「ではご辞世でもうけたまわりましょうか」
長政はちらりと深い空を見やって、
「それもない」
「お墓はいずれの地がお望みでござりまする」
「そうさのう」
長政はゆっくりと刀を抜いた。
「二十九年の生涯、夢のまた夢・・・・」
しみじみとつぶやいて、もう一度、外のざわめきを聞く顔になった。
心憎いほど長政のこころを知っていて、織田勢はすでに鳴りをひそめている。
「敵もなし味方もなし、悲しみもなし、さりとて喜びもなかった・・・・そうじゃの、墓は琵琶湖びわこ の湖底に沈めて貰おうか」
雄山和尚はゆっくりとうなずいた。
「殿のお好きな竹生ちくぶ じま の沖あたりに」
「そう願おう」
ご戒名はコ勝とくしょう 殿天英宗清でんてんえいそうせいだい 居士こじ とこの和尚が・・・」
「大そうな名をつけられたの。ハッハッハッ・・・・では太郎次郎」
太郎次郎は血のりのついた柄頭に腕をのせ、声をころして泣いていた。
敵も味方もなく、悲しみも怨みもないという二十九歳の長政の死は、怨恨えんこん った父久政の死とは比較にならない底抜けの悲しさを含んでいた。
「さらば・・・・」
「心おきなく」
がッと刀を脇腹に突き立てると、木村太郎次郎の血刀が一閃した。
雄山和尚は、大きく眼を開いたまま、それを静にみまもって、別に合掌もしなかった。
またさわさわと萩が鳴った。迷った蝶がひさし から縁へ入って来て、青い空へ気まぐれに去っていった。

徳川家康 (六) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ