「もし万一、お方の身に異変があっては殿へはむろんのこと、刈谷の殿へも相済まぬ。思いがけぬ事を申される」 笠の中から叱っているのは酒井雅楽助であった。彼は於大が嫁いできた日の危険を想い起こしているのに違いない。その口調はわが子をたしなめるひびきがあった。 於大はその声に視線を向けた。大気の冴えがそのまま皮膚
に反映して、浮き出たようにあざやかな於大であった。 「その志を、わらわよりも竹千代に注いで欲しい」 於大の声はこれも十七の女とは受け取れぬ、さとすような口調であった。 「みなは・・・・竹千代のためには・・・・かけ替えない大切なお宝ゆえ、これ以上の見送りをだい
は決して喜びませぬ」 「はて、異なことを仰せられる。その大切な竹千代さまのご生母ゆえ、われらは万一を心配する。お心遣いはご無用になさりませ」 安部定次がいかにも不服気に言葉を返した。 於大の眸にはまた薄く涙がにじんだ。唇辺りが微かにけいれんするのは於大が感情に負けまいと努力しているせいであった。 「わけを申さずばかないますまい。聞いてたもれ」 「・・・・・・」 「刈谷の兄の気性、みなよりこのだい
がよく知っています。短慮なお方、はげしいお方と申しましょう。それだけで、だい
の心を察してたもれ」 「・・・・・・」 「もしみなに万一のことがあったら、竹千代の成人の後に、心なきははであったと、わらわが深く怨まれまする。あれほど武功の者どもを一時の悲しみにとらわれて敵地へ連れ込み、むざむざ生命を落とさせた、うかつな母と言われまする」 金田正祐がはっとしたように顔をあげてみんなを見返った。みんなはシーンとして石のように立っている。於大はそっと目頭を押さえた。 「用心は先にするもの・・・・と、これはわらわの父、右衛門大夫が訓え。いや、それだけではない。竹千代と下野守とは伯父と甥。その間に恨みの種を残さぬように計らうがだい
のつとめかと思いまする。だい
の頼みじゃ!
竹千代の後のためじゃ! 聞き入れて帰ってたもれ」 急に大きな男泣きがわきあがった。一人や二人ではなかった。どの肩も、どの笠も小波
立
って揺れだした。 「お方!」
と雅楽助が絞るような声を出した。 「お方はそれで十七じゃ。わしは恥ずかしい・・・・この年で、なんと大きく抜かっていたものか・・・・そうじゃ! 城にはわれらの大切な竹千代さまが待ってござる。みな!
帰ろうぞ。帰ってな、今日のお方の、この用心を忘れまいぞ」 こうして、於大の輿は安部定次が呼んで来た百姓の手に托された。岡崎の老臣どもは、於大に急き立てられて、見返り、見返り、城へ帰った。 於大はそれが見えなくなると輿をあげさせた。はじめて孤独が全身をしめつけて、すすり泣く音が輿の外までもれていった。 於大の姉、松平紀伊守家広の北の方はこの心遣りがなかったので、彼女を送っていった十六人の供の者は、一人残らず下野守に誅された。 空には一片の雲もない日に・・・・
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