〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/20 (水) 照る日、曇る日 (十)

新八郎の苦情が終わったと知ってお貞も亀女もホッとした。松平の家中では大久保党がいちばん気骨奇行にとんでいる。一族三十余人、宗家は新十郎、新八郎、甚四郎と三人そろった兄弟で、弟の甚四郎忠員ただかず も竹千代誕生と聞くと、すぐ自分の子供をそば 小姓こしょう にあげたいと申し出て広忠を面食らわしたということであった。
甚四郎の子供はまだ生まれていなかった。腹の中にあるうちでは男女の別がわからぬゆえ、生まれたからにいたせと言われて甚四郎は心外な面持ちだったという。
「・・・・殿はこの甚四郎を信じられませぬか。この際この時、女子など産ませるほど奉公不熱心な男と思し召されますか」
詰め寄られて広忠は辟易し、
「── わかったわかった。が、そう一度に嬰児やや ばかりが持ち込まれても困るゆえ、竹千代もそちの子も歩くようになったからにいたすがよい」
そうした話を聞いて家中一同大久保党の武辺ぶりを笑ったのだが、むろんそれは言葉の表面どおりのうつけ・・・ 者としてではなかった。
うつけ・・・ 者どころか彼らの奇行の裏にはつねに何ほどかの風刺ふうし と皮肉とがかくされている。
近ごろとかく広忠との間のうまくゆかぬ叔父蔵人信孝のぶたか への痛烈な皮肉であり威嚇いかく でさえあった。
「── われらはまだ生まれぬ子孫にまでこのように奉公ほうこう 大事だいじ を訓えている。しかるに肉親の叔父でありながら・・・・」
そんな意味でギロリと眼を く気骨が言外にあふれている。
新八郎は、それから打ち解けて、乳人たちと談笑し、たがてまた真四角に退出の挨拶をして帰っていった。
「和子はのう、生まれる前から武勇のコを持たれた方じゃ。お身たちにそれがわかるか。はら におわすうちから、われらをお守り下された。去年の秋の小豆坂の戦でな」
帰りぎわに大声で笑っていったのは、むろん奥の間の於大に方へ聞かせる言葉であった。
於大は褥の上に坐り、そうした言葉をしみじみと噛みしめる。
新八郎は、和子が於大の胎にあったゆえ、水野家では織田方に加担しなかった。小豆坂で勝ったのはそのためだと言っているようであった。
新八郎が去ってゆくと、於大はそっと手を合わせた。家中一同から竹千代の誕生はまぶしすぎるほど歓ばれている。
大久保新八郎の酒気を帯びた今日の行為もいわばその現れであった。
いやそれよりもいっそう於大を感激させたのはこの城の二の丸に隠居して、今まで連歌ばかりを作ってほとんど家臣に逢わぬようにしている八十六歳の玄祖父道閲どうえつ 入道にゅうどう までが、人の背に負われて竹千代を身に来てくれたことであった。道閲は広忠の父の清康の祖父であり織田信秀に随身している松平信定の父であった。信定が織田に随身してからは、全然政治に遠ざかり、於大が嫁いで来た時も、
「── わしは世捨て人、年寄りはむさいものじゃ」
そう言って会おうとしなかったが、竹千代を見に来たときは、
「── めでたい。めでたい」 と泣いてくれた。
於大は手を合わせてその幸福に感謝する。
とつぜん隣で逞しい声をあげて竹千代が泣きだした。障子にうつる陽射しは白く、於大は手を合わしたままいつまでも動かない。

徳川家康 (一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ