〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/18 (月) 女性の歌 (七)

於大はお久の顔から不安の消えてゆくのをみすまして、まだ少しあまっている黒砂糖をお久に渡し、もう一度勘六に頬ずりして座を立った。
そして、次の間に控えていた百合と小笹をしたがえて自分に居間に帰って来ると、
「そなたたち、勘六どのをどう思うぞ」
いつにない真剣な表情で、
「殿も勘六どのはお可愛いであろうな」
と声をのんだ。百合は黙って頷いただけであったが、小笹はあらわに反感を見せて、
「お屋敷さまも早く若君をお産みなされませ」
於大の方はポーッと頬を赤らめて答えなかった。
「お屋敷さまがお産みなさればそのお方が世を継がれる。勘六君んまどものの数ではございませぬ。脇腹わきばら でございますもの」
言い方があまりに無遠慮だったので、
「これっ、はしたないぞえ小笹!」
於大はきびしくたしなめた。口の中の黒砂糖のくどさがまだ残っている。小笹を叱った瞬間にぐっとそれが胸につきあげ、ムラムラと をさそった。
於大はハッと口を締め、胸を押さえた。
お久の方の警戒しきっていたさっきの顔がまざまざと思われる。まさか母の華陽院が、自分まで毒害するとは思えなかったが、思いがけぬものを食べて中毒することはある。顔色まで蒼ざめてきたとみえて、
「お屋敷さまどうなされました」
百合が先に気づいた。
「百合」
「はい」
「そなた、勘六どのを見舞って来やれ、さっきの飴の甘味はきつすぎます。よけい食べさせてはなりませぬ。急いで行きゃれ」
「はい」
百合が出てゆくと、於大の方は胸を押さえてつっぷした。白い咽喉を大きなかたまり が上下して、そのたびに硬く体が痙攣けいれん する。
「お屋敷さま・・・・どうなされました?」
「小笹・・・たらいを」
「は・・・はい」
小笹がおろおろとたらいを運び、於大のうしろへ廻って背手を触れると、於大はゲーッと何か吐いた。
小笹は気が気でなかった。毒見はいつも小笹がせよと、あれほど堅く命じられて来ていながら、相手が華陽院なので、今日の彼女はきびの飴をうっかり忘れていた。
今にも真っ黒な気味悪い塊がとび出しそうで、小笹は全身を固くした。
だが・・・・
ゲーッ、ゲーッと背を曲げるたびに出て来るものは黄色く澄んだ水ばかりで黒い砂糖の感じはなかった。於大の額にはしっとり銀色の汗がにじんでいった。唇はうす黒い蒼みを帯びてゆがんでいる。澄んだ眸までが水を含んで底光をたたえ、たしかにただごとではなくみえる。と、そこへ百合の知らせで老女の須賀が駆けつけた。須賀はじっと於大の方の顔を見つめて背をさすりながら、
「これはめでたい!」 と真剣な声で言った。
「お屋敷さま、これは懐妊かいにん のしるしでござりますぞ。まずまず・・・・おめでたい」
すでに欲する命は胎内に芽生えていた。おさな い於大はまだそれに気づかずにいたのである。

徳川家康 (一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ