信玄は肩の凝りの快くほぐれてゆくのを全身で味わっていた。 世間ではあるいは信玄が、野田城一つを取りかねて、じれきって三河に滞在していると思うかもしれない。 が、信玄はここで悠々と勝利の軍略をめぐらしていたのである。 問題は織田信長のあり方であった。 三方ヶ原で勝利をおさめると、信玄はまず、伊勢の北畠
具教 に密使を送った。そして、武田と北畠の同盟を固めておいてただちに、信長の五罪をかぞえ、平手汎秀
(長政) の首を贈ってこれに絶交を宣していった。 信長は正月の二十日に、わざわざ一族の織田掃部
を三河に寄こした。掃部は信玄に対して異心のないことを弁解これ努めたが、信玄はこれを受け付けなかった。 そして、ただちに将軍義昭に織田討伐の兵を起こすように要請していったのである。 将軍義昭は、信玄の思い通りに兵をあげた。したがって、織田勢にはもはや家康のもとへ援軍を送るなどの余裕は全くなかった。 信玄はまた薄眼を閉じたまま、
「フフフ」 と笑った。 若い家康の狼狽と切歯
が眼に見えるようであった。 家康とても凡将ではない。彼は一月の末に至って信玄の戦略に気づいたようすであった。 要所要所に放ってある間諜の報告によれば、家康は二月始めに、三たび密使を越後の上杉謙信のもとへ遣わした形跡があった。 あるいはその内容は、いま、徳川、織田の両軍を救い得るものは、謙信よりほかにはないと、虚心に援兵を求めていったのかもしれない。 が、北国の春はまだ浅い。富山で頑強な一行信徒の反撃にあっている謙信からの援兵も間に合うはずはなかった。 「もうよかろう。楽になった」 信玄は鷹揚に侍医に言って、それから祐筆に、
「硯 を」 と言った。 いよいよ三河を発進する。その前に、本願寺
光佐 へ書を送って、浅井長政や将軍義昭に一向宗徒の味方が近畿一帯に蜂起するゆえ、信長除去に全力を尽くすよう、その親書を認めるためであった。 信玄はすらすらと筆を走らせた。 肩を揉ませながら考えた文案だったが、それに盛られた軍略は、前面の敵に身動きできない信長のうしろから、とどめを刺そうとするものであった。 書き終わって、穏やかな微笑をもらした時、ふたたび仮り屋の前に訪
う人の声がした。 「山県三郎兵衛でござる。お目通りを」 信玄は小姓をかえりみて、軽くあごをしゃくった。 三郎兵衛昌景は小さな肩をゆするようにして入って来ると、 「あと、二日のうちと存じましたに、只今開城と決まりました」 坐る前に早口に言った。 「そうか。それはよかった。して菅沼新八郎は?」 信玄は認め終わった書状を祐筆の手に渡しながら、眉毛一筋動かさず、くびれた顔を軽くゆすってうなずいた。 |