家康は茶碗のかげで自分の眼がお愛を動かないのがおかしかった。 一度軍略にそれた思念が、ふたたび人間臭い・・・・あまりに人間臭い煩悩
の前に据えなおされてしまった。 お愛は女なのだ。 そして今夜の家康は、その女をどこかで意識においている男であった。 その男の前へお愛は何の危なさも感じないでやって来たのだろうか。いや、そのようなことはない。一度良人を持った女は、男の習性をよく知っているはずである。 とすれば、お愛はすでに主君としての家康に愛されることをありがたく待っているのであろうか。それとも世に言う色好みであろうか? 「お愛・・・・」 「お呼びでござりまするか」 「そなた今日、風呂場で予に叱られたと思うたであろう」 「はい・・・・ふつつか者ゆえ、ついご機嫌をそこないました」 「そなたは何で叱られたか考えてみたか」 お愛は一瞬答えなかった。闇にうかせた顔をまっすぐ家康にむけたまま、彫りつけられたように動かない。 「なぜ答えぬのだ。予は、何で叱られたかわかったかと訊いているのだ」 「それが・・・・ふつつか者ゆえ、思い当たりませぬ」 「ほほう、すると思い当たらぬままに詫びたのじゃな。そなたは、わしがしたことの善悪は考えず、叱られるといつも詫びる女子か」 「いいえ、殿でなくば詫びませぬ」 お愛ははっきりと答えた。 「では、予ゆえ詫びた。予が君主ゆえ詫びたのか」 「はい・・・・いいえ、それも少し違うように存じまする」 「ほほう、これはおもしろい。どう違うか申してもよ」 「私は、殿を、たぐいないご発明な方と存じておりまする。それゆえ、叱られたは必ずどこぞに落ち度のあること、それを思い至らぬわが身の不敏さ・・・・そう存じてお詫び申し上げました」 「なに、予がたぐいない発明じゃと」 家康は、その言葉に一番嫌いな追従
を感じとって、思わず声が皮肉になった。 「するとそなたは愚と見れば、たとえ目上でもさげすむ女子か。老耄
した良人などには優しく仕えぬたぐいの女子か」 お愛はまた黙った。おそらく思いがけないことを言われてびっくりしているに違いない。 「なぜ黙っている。予が見えすいた追従をよろこぶと思うているのか」 「いいえ、それは違いまする」 「どう違う。はっきり申してみよ」 「口では申し上げられませぬ。ただお愛は追従など申し上げたとは思いませぬ」 「ふーん、すると正直に申したのだな。では予も正直に申して聞かそう。予はそなたを叱ったのではない」 「は・・・・よ仰せられますると?」 「たわけめ、愛
おしく思うたゆえ労 ってやったのじゃ」 家康は吐き捨てるように言ってごくりと唾をのみこんだ。お愛が何と答えるか?胸のドキドキしているのが、おかしくもあり楽しくもあった。
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