〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/06 (月) 男 対 男 (十一)

三河勢の果敢な勝利に比べて、その日の織田勢はふるわなかった。
と、いうよりも、それは小谷城を出て来た浅井方の勢いがすさまじすぎたといっていい。
三河の榊原勢が朝倉方の本陣を衝いた頃、織田方では磯野いその 員昌かずまさ の一隊がいよいよ信長の本陣へ殺到しようとしていた。
第一番隊の坂井さかい 政尚まさひさ 父子が討たれたのが、思いがけない結果を生む端緒になった。
第二番隊の池田いけだ 信輝のぶてる も中央突破を敢行され、つづいて木下藤吉の一隊も、柴田勝家の隊もその猪突の軍を防ぎとめ得なかった。
いまは坂本城の城主もり 三左衛門さんざえもん 可成よしなり が、必死で、本陣へ敵を寄せまいとして戦っている。
もしその一隊が敗れると、信長は直接敵と太刀をあわせなければならなかった。
「お館なんとなされまする!」
信長のかたわらにあって、落ち着き払って形勢を観望していた蒲生がもう 鶴千代つるちよ までが、さすがに顔色を変えて来た。
が、信長はまだそばに曳かせた馬にまた がろうともしないでいる。
「お館!」 と、また鶴千代が言った。
信長はフフッと笑った。
「鶴、おぬし、驚くことを知らぬ男と思うていたが肝は案外小さいの」
鶴千代は頬をそめた。あわて者と言われたのが心外らしく、ひい でた眉がぴきぴくと震えている。
「ご勝算あれば、十分に落ち着きまする」
「勝算などが、戦にあるものか」
「と、仰せられますると?」
「勝たねば負ける。負けねば勝つ。信長は考えて陣を敷いた。敷いた以上は知るものか」
鶴千代は言葉も意味を解しかねて、じっと信長を見守った。と、そのとき、二つのときの声が前方であがった。
一つは森三左衛門の一隊が、ついに右端を突き崩された声、もう一つは家康の後方にそなえていた稲葉いなば 一鉄いちてつ 通朝みちとも の軍が、時こそよしッと勝ち誇った磯野勢の左脇へ斬りこんでいった声だった。
森三左衛門の頑強な抵抗を、ようやく破りかけた時だけに、この不意打ちは磯野勢を狼狽させた。
すでに夜明けからの連戦で、人も馬も疲れきっている。それの比べて稲葉一鉄の軍勢は三河勢苦戦の折にも、首を振って動かさなかった、押えに押えた闘士満々の新手あらて であった。
ときの声はやがて悲鳴をまじえて来た。
そうなると崩れるのは早かった。並んで攻撃していた朝倉勢は破れている。うっかりすると、三河勢にうしろへ廻って退路を断たれる怖れがあるからだった。
「鶴、どうじゃ戦況は」 と信長は言った。
蒲生の麒麟児きりんじ は、おだやかな微笑を取り返して、
「ご教訓、身にしみました」
「戦というものはの、おのれ を信ずるよりほかにないのだ」
「はい」
「いま横山城への予備が右に衝いてくる。浅井勢はこれで三方に敵を受けた。四半刻以内には総崩れになるであろう。でなくば、この信長が、家康めに尻の毛を読まれるわい」
信長はそう言うと、またフッフッフとひとりで笑った。床几にかけたまま、いよいよ決戦の今日は汗ひとつ出していない信長だった。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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