家康が幕の内に入って来て兜をとると、信長の眼くばせで雑兵
が二人、左右からおおきな団扇
で風を送った。 「浜松はまた肥えられたの。わしはこのとり痩
せているが」 信長がぴしりと裸身の腕をたたくと、 「格別うまいものも食べませぬが、根がのんびりとしているせいと見えまする」 「ハッハッハ、おぬしが呑気
なものか。金ヶ崎では笑ったのう、いや、あれで痩せぬとあればおぬしの肝も油断のならぬ太さじゃわい」 言いかけて自分の裸に気づいたように、 「暑い、許されよ」
と笠をたたいた。家康は溶けるように笑った。 はたから見ていると、それはどこまでも隔意
ない兄弟以上の親しさに見える。が、そうした中にも戦国に生きる男と男の心構えに一分の隙もあるのではなかった。 「浜松どの、ぬかりないおぬしのことだ。ここへ来るまでに敵の様子は見て来ていよう。どこへ本陣をおかれるkな」 家康はわざと笑いを顔から消さず、 「敵は姉川の向かい、野村、三田の郷に布陣と見てとりましたが」 「さすが!
右手が浅井、左が朝倉じゃ」 「われら、わざわざ三河から馳
せつけましたればば、西上坂のあたりに川をはさんで朝倉勢の本隊と相対しとうござりまする」 信長の眼がちかりと光った。 「それではおぬしに気の毒じゃ。それは遠慮せねばなるまいて」 家康は、これもキラリと信長を見返して、 「ご遠慮とは異なことを仰せられる」 「いや、さにあらず、わざわざこの信長のために駆けつけられた好意、その好意を忘れて、おぬしを越前の精鋭に当たらせ、万一のことあらば信長、武士道をわきまえぬ奴と後の世の人に笑われよう」 家康ははじめてぐっと表情を緊めた。 信長の言葉のうちに、二つの意味を受け取ったからであった。一つは自分の力で勝てる戦に、なるべく恩を受けまいとする。もう一つは、家康の兵を傷つけまいとすることが必ずしも策略ではなくて、彼の心の底にあふれる真実であることだ。 その後者が家康の若い血潮をじりじりと灼
いて来る。 信長の小姓が冷たい清水を汲んで来て、二人の前に差し出した。するとかたわらから家康に従って来ていた井伊万千代が、すぐにそれを取って毒味した。 信長はフフフと笑ったが、家康は、万千代の毒味にも信長の笑いにも気づかぬ様子で清水を飲みほしてから、 「館は、この家康が年齢を、お忘れではござりますまいなあ」 と、しずかに言った。 「おぬしの年、忘れるものか、本年は二十九であろうが」 「二十九は屈強の働き盛りとはおぼされませぬか。その働き盛りのわれらが、わざわざこの地まで出向いて、年よりじみた予備線には立てませぬ。同じく越前から馳せつけた朝倉勢を蹴散らしまする」 「わかった!
おぬしの意気はよくわかった。が、おぬしにもし万一のことがあっては、駿河、遠江から三河一帯の乱れになる。おぬしそれを考えられたか」 |