〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/04 (土) 男 対 男 (一)

家康がふたたび近江をめざして浜松城を出発したのは、真夏の太陽がじりじりと大地を く六月二十二日であった。
五月十八日、一旦帰城してから約一ヶ月目。途中岡崎城に立ち寄って、わが子信康に体面、二十四日の早朝に岡崎を発った。
こんども老臣たちの中には、信長のための出兵を喜ばない者があったが、家康はそれを問題にしなかった。
留守を守る総大将の信康は十二歳。あとに不安がないわけではない。
が、二十九歳の家康の血の中にはここで信長の浅井、朝倉攻めを傍観させないものがあった。
この春はじめて上洛して、信長の実力を見せ付けられ、いよいよその下風に立つ気になったのでは・・・・そうした考察が不平を抱くものの中にあったが、家康の考えはそれとは全く別であった。
多くの犠牲と危険をおか して、わざわざ越前まで兵を動かしていながら、彼は彼の兵の精強せいきょう さを信長に示すことが出来なかった。
見ようによれば一つの 「義理」 は立っている。が、家康は越前まで義理を立てにおもむくほど無計算でもなければ、信長を怖れてもいなかった。
彼の出兵には、どこまでも若くしておこ る者の情熱と先見とが隠されている。
信長が彼に示した実力。これが家康にとっては黙しきれぬ問題なのである。彼が将来、信長にあなどられまいとするならば、彼もまた彼の実力をはっきりと信長の心に灼きつけておく必要があった。
「さすがは家康、義心も金鉄、兵も精強」
そう思わしめることだけが、信長にあなどられぬ唯一の道なのである。
その意味から言えば越前への出兵は、こんどの出兵によって、はじめて生かされる性質のものであり、こんど逡巡しゅんじゅん したのでは以前の出兵は弱者が強者にせがまれてやむなくした無意味なものになり下がってゆくのである。
「父は、織田どのに父の力をはっきりと見せてくる。三郎も留守中に、父の子ほどあると家中の者を感心させよ」
信康にそう言いつけて岡崎城を出るとき、家康は見送りの人の中に瀬名の顔をさがしていた。
大手多門の前に、母の於大おだい の方も見えたし花慶院かけいいん も見えた。十二歳の徳姫とくひめ も三人の侍女を従え、見違えるほど大人になって家康に黙礼した。しかし肝腎かんじん の彼の妻の姿はどこにも見当たらなかった。
家康は馬上で軽く頭を振って、戦場の身構えにきびしく心をおきなおした。
旗頭はこんども酒井忠次と石川家成。旗本には二十三歳になった本多平八郎忠勝をはじめとして、鳥居元忠、榊原小平太、それに万千代の井伊いい 直政なおまさ が、星のように眼を輝かせて従っている。総勢はよりすぐった精鋭五千。
気に速い信長はすでに小谷城めざして岐阜を出発したという、その知らせは矢矧やはぎ 川を渡ると間もなく受け取った。
「みな急ごうぞ!」
戦列は三河を過ぎ、尾張、美濃と闘志をひそめて、近江の戦場に到着したのは六月二十七日の旗差し物も汗ばむ炎天下であった。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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