〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/28 (土) 夜 明 け (八)

大久保新八郎の泣き上戸じょうご は知れわたっていたが、それにしてもあまりにもその声が大きかった。
「山中の狼が泣きおったわ」
石川安芸あき がそう言うと、
「泣いたのではない、ほえたのじゃ」
老人はそう言い返してもう一度大きくほえ、それから思い直したように杯を干した。
「これは山中の狼めのめでたい時の歌でもある。おぬしたちも肴をやられい」
つぎは阿部あべ 大蔵おおくら 。この老人はうやうやしく杯を押しいただいて元康に黙礼したが、ただわなわなと唇が震えるだけでついに言葉は出なかった。
石川安芸が、いちばんはっきりと元康に挨拶した。
「殿! 長い間のご堪忍かんにん 、そのかいがござりました。これからも、関口せきぐち 御前ごぜん や若君が駿府にあらせられまする。決して軽々しくなされませぬよう。いただきまする」
その次に坐った植村新六郎は本多の後家の父であり、祖父のかたき と父の敵とを、その場を去らせず討ち取った、松平家にとっては忘れ難い強勇律儀りちぎ の人であった。
彼は杯が来ると、
「おさかなつかまつる」 そう言ってあやしい手振りで 「鶴亀」 の一節を口ずさみながら草ずりを鳴らして一さし舞った。
みんは戦は上手であったが、歌や舞はひどく不得手で、しんとして見ているばかり。
「せっかくの肴に手もたたかぬ張り合いのない人たちじゃ」
むっつりとして座に着くと、パチパチと、時期はずれの手をたたいたのは末座の長坂ながさか 鎗九朗やりくろう だった。
「面白い。やんややんや。何のことかわからぬが、やんや、やんや」
こんどは杯は酒井雅楽助のところに回った。雅楽助は杯を手にすると、どっとあふれる涙で、何も見えなくなったしまった。
元康の生母、於大の方の嫁いで来る頃から、元康の生まれた時、於大の方の別離の時、先代広忠ひろただ の死去の時と、あまりに思い出が多すぎた。
そして今こそ嘘ではなしに、十九歳で立派に武将の面影おもかげ を備えた元康が、わが城の大広間に、どっかりと坐っている。
それはいかにも重厚な、すわりよい巨石でも見ている感じで、先代広忠のあの神経質な危うさは少しもなかった。
「それがしは・・・・」
一杯を押しいただくと雅楽助はそれを持ったまま籠手こて で涙を拭いて言った。
「殿にはお祝いは申し上げませぬ。ご先代さま、ご先先代さま、おめでと存じまする・・・・また阿古居におわすご生母さま、駿府に眠らせられる華陽院さま、ごらん下さりませ、元康さまはわが城にどっかと坐ってござりまする・・・・おめでとう存じまする」
元康はたまりかねて顔をそむけた。
雅楽助に、忘れ得ぬ人々を数え立てられて、彼もまた、改めてここがわが城であったことを味わい直した。
(そうだ! これからわしはやらねばならぬ! わしを柱として、助けてくれた家人のために)
元康は泣く代わりにニコニコと笑ってうなずいた。
(今日がわしの二度目の誕生日。みな見ていてくれ。これからの元康の働きぶりを。一度死んで、大きな無の上に立ちはだかった元康を)

徳川家康 (四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ