梁田政綱はまたすぐ言葉をつづけた。 「輿を止めて礼の者が持参の酒盃を手にし、勝戦を祝って謡曲をひとさし舞うを見届けましたと斥候
の知らせにござりまする」 「義元も舞いおったか。して本隊の五千騎は?」 「いずれも窪みにて昼食中の由」 一瞬信長は眼をつむった。頭上の真っ青な空の割れ目をあわただしく雲が走っている。 「大儀!」 信長は眼をつむったままそう言うと、すぐかっとあたりを睨んだ。 (勝った!) それは研
ぎすまされた白刃の切 っ尖
にきらめきかかるような直感だった。 信長はただちに兵を二隊にわけた。後方に続く者と擬兵
はそのまま善照寺の砦に入らしめ、自身は選りすぐった一千の精鋭を率いて義元の本陣へ。 わけ終わると、陣頭に立って信長はまた怒号した。 「名をあげ家を起こすは、この一戦ぞ!
ただし個人の功を急いで全軍の勝利をのがすな。敵はみなで踏みにじれ。義元以外の首級はあげるなッ。わかったか」 「おう!」 みんながそれに答えた時はすでに愛馬の疾風は馬首を立て疾駆
し出していた。 めざすは田楽ヶ窪。 だが、敵の眼にはその精鋭の姿はうつらず、後に残された兵力が擬兵とともに善照寺の砦に入るところがよく見えた。 「たしかに信長が出て来ている。が、われらの勢いを見て、討ってかかれず砦に入ったわ」 その観察が、信長の奇襲を隠す隠れ蓑
になった。 信長は息つく間もなく桐原
の北方の丘の麓 をまわって小坂へ向かった。そこから太子ヶ根を越えて今川勢の右背後を衝き、一挙に勝負を決そうというのである。士気はあがった。汗も苦痛もすでに意識のうちになく、はげしい戦意だけが精鋭一千をつつみこんだ。 太子ヶ根山に到着してのは正午。その頃から早い流れ雲が再び空を蔽
いつくして、いまにも雷雨が来そうな雲行きに変わっている。 信長は何を考えてか、小山の上で馬を停めると、 「待てッ」 はやりきっている精兵をおさえて休息を命じた。 頭上からの窪の内部は一目に見えたが、下からは雑木にさえぎられて何も見えない。一気に駆け下りたら敵は大混乱に陥るはずだった。 信長はみんなに休息を命じたが自身は馬をおりなかった。あの繁み、この繁みとわけながら、しきりに空と窪とを観
つづけた。 やがて冷たい突風が暴々しく山頂を撫でていったと思うと、一度に滝壺をあけたような雷雨がやって来た。 ワーッと下の窪では雨を避けるざわめきがわき起こった。 信長は兜から滴
る滝のような雨をはらってじっと眼下の騒ぎを見下ろしている。 紫電が縦横に空をひき裂き、雷鳴が、山と窪とを圧していった。 |