次郎三郎が隠寮を出るとき、すでに雪斎の病気を聞き知った人々が、続々と山門につづいていた。 雪斎が心を配っていたように、誰も次郎三郎の見舞いの早さを疑う者がなかった。それほどこれは今川家を聳動
させるに足る出来事に違いなかった。 義元は翌日みずから雪斎をたずね、その病の篤
きにおどろき、六人の侍医に投薬させたが、雪斎自身が述懐していたように、人生に訪れた冬はまた、人為ではいかんともなしがたかった。 翌十月十日、ついに雪斎はこの世を辞した。いかにも豪快な済み切った臨終
だったが、息を引き取ったと聞いたときに、次郎三郎は仮寓の居間に香華
を供え、祖母と雪斎の遺言を今さらながらも思い合わさずにはいられなかった。 祖母は母との争いは避けよと言い、雪斎はわが志をつげよと言う。両者とも、次の悲劇の焦点が義元の上洛にあることを指摘した点では同じであった。 しかも祖母の遺托
も、雪斎の残した公案も、十四歳の次郎三郎には、確かにそうとうなずくだけで、これという策など早急に立つ性質のものではなかった。 雪斎の言葉は、彼自身の葬儀が済むとすぐ事実となってあらわれた。 この年三月、三好
長慶
は播磨
の明石
、三木
の両城をくだしているし、越後の長尾影虎
は武田晴信と川中島
に戦って、その力量のあなどるべからざるを示しただけでなく、一転してこんどは北条氏康
の所領関東にまで、俊敏な鋭鋒を向けて来る気配であった。 それだけでも十分注目に値
するのに、雪斎の喪
が発されようとしている十月中旬になって、彼の放ってあった密偵は、毛利
元就
が、厳島
に陶
晴賢
を撃滅して、いよいよ上洛をくわだてそうだという情報をもたらした。 (人間には死があった・・・・) 不惑
に手の届く壮年期に達して、義元は今や蹶起
せざるを得ない四囲の情勢を看取
せずにいられなかった。 群雄すべて京をねらう。 北条も、長尾も、武田も、三好も、毛利も・・・・今や上洛は彼らを一線に並べて、いずれが早いかの時の競いを深くして来たのだ。 政治的な駆け引きで織田を麾下
に加え得ないとすれば、踏み潰しても押し通らねばこの時を失する。 (人間には死があった・・・・) 義元の焦慮は、やがて次郎三郎の婚礼の日取りまでを一月五日と繰り上げさせた。 そしてこれを申し渡すために呼び出した次郎三郎に、義元はニコニコと上機嫌の笑顔を見せて、 「いよいよそなたも一人前じゃ。婚礼を済ませたら、一度岡崎へ立ち戻って、祖先の展墓かたがた家中の者どもに顔を見せてくるがよい」 と、鷹揚
に言った。 次郎三郎は、まだ心に工夫しきれぬ人生の公案を秘めたまま、 「ありがたき仕合せ」 言葉少なく頭を下げるよりほかなかった。 |