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2011/02/04 (金) 布 引 の 滝 と 文 学

文学の上で布引の滝が大きく取り上げられているものに、伊勢物語の記事がある。平安朝前期のことである。
父の領地のある芦屋の里に来ていた在原業平は、或る日 「いざ、この山の上にありといふ布引の滝見にのぼらん」 と言って友だちを誘い、布引の滝見物にやって来た。
ところで、伊勢物語のこの所は 「いざ、この山」 とよまないで 「いさごの山」 とよむ説があり、布引の滝登り口の右側にある丸い小さな山、即ちいさご やま (通称丸山) をさすとする考え方である。
現在は専ら 「いざ、この山」 説が行われているが、 「いさごの山」 説も捨て難く、かつて神戸市の観光バスが布引近くになると ── 今はコースが変わったので案内されていないが ── ガイド嬢は前面の山を指して、 「伊勢物語に書かれている砂山であります」 と説明したのは、この説によったのである。
この伊勢物語の場面では、今から約千百年前の布引の滝の姿が、かなり細かに描写されている。
雄滝・雌滝に分かれていないで、一本の滝であるが、 「高さ二十丈、広さ五丈ばかりの岩を白絹で包んだようである」 と、いかにも布引の滝にふさわしい表現をしており、 「横にさし出た岩に飛び散る水玉は、小さな蜜柑か栗の大きさで、はげしい水の勢いである」 と、短い文の中に滝の壮観をいきいきと躍動させている。
往時、ここは生田の森とともに神戸地方の最も優れた観光地であるので業平以外にも多くの人が訪れ、平安朝文学においては、それらに関する歌が所々に点在する。
宇多天皇や藤原頼通 (道長の子) 遊覧のことが古今集や全葉集にあるが、とりわけ栄花物語三十九帖には、「布引の滝」 と題して関白藤原師実 (頼通の子) の布引の滝見物の描写がある。

その頃、殿、布引の滝御覧じにおはす。道の程いとおかしう、さまざまの狩装束などいふ方なし。業平が言ひつづけたるやうにありけむかし
という文に続いて、人々が詠んだ歌が九首ならんでいる。
栄花物語の作者もまた業平の滝見物を回想しているが、このように時の関白が親子二代揃って来るほど著名な場所であったのである。
また、実際にこの地に来て歌を詠むばかりでなく、いわゆる題詠として、歌合・百首歌・屏風歌・障子歌の多く行われた平安朝から鎌倉期へかけては、この布引の滝が当地方のすぐれた歌枕として、生田の森とならんで数多く詠まれている。現在の布引歌碑群の歌も以上の諸歌の中から引用されているものが多い。
さらに時代が下ると、軍記物語にあらわれてくる。即ち平家物語に、平清盛が滝見に来たことにあわせて、難波経房が、雷となった悪源太義平の霊に殺される話がある。布引の滝が箕面の滝となっている本もあるが、平家一門の滝見物といった場合、かつまた、平安朝文学の流れから見ても、神戸の布引の滝とする方が適切であろう。
ところで、この話そのものは布引の滝と内面的なつながりはないが、源平盛衰記の記事になると、布引の滝の神秘性が主体となってくる。即ち、清盛の子の平重盛が滝遊覧に際して、難波経俊をして滝壺を探検させる話である。
経俊が滝壺深く潜って行くと、そこには四季の景色に包まれた素晴らしい宮殿がある。御殿の女性から、ここは龍宮城であることを聞いて驚き、恐怖の念にもかられて引き返すのである。そして、重盛の前で状況を報告していると、一天にわかにかさくもり、雷雨雷鳴とどろき、黒雲が経俊を包むと見る間に五体は裂かれて死んでしまったのである。恐らく、これは布引の滝の尊厳性を犯したが故に、竜神の神罰を受けたと解すべきものであろう。
次に、この二つの物語の素材を取って、さらに少し内容をも変えたものに浄瑠璃 「源平布引」 (並木千柳・三好松洛 作) がある。清盛が弁財天に平家の長久を祈ったところ、布引の滝で平家盛衰の心を見よとのお告げがあり、水練の達者な常俊が水に入り霊女に会う。霊女は平家の運命は凶であることを告げる。
この浄瑠璃全段をおおうものは平家一門にになぎる衰運であるが、その語り出しに、この布引説話を置いて全篇を暗示させたものである。清盛が愛した神戸の地、そこの名勝布引の滝を背景としたところに、作者の意識的な趣向が感じられる。
その他、増鏡に、後醍醐天皇隠岐遷幸の途次、 「布引の滝など御覧じやらるるも、古き御幸ども思し出でらる」 といった文があるが、それ以上のことは述べていない。
松尾芭蕉も貞享五年 (1688) 四月には確かにここに来たのであるが、別に俳句は残していない。井原西鶴の地理案内書、一目玉鉾に布引の名はあがっているが、作品では注目すべきものも見当たらない。
要するに、布引の滝についての文学作品としては、伊勢物語、栄花物語の描写及び平安朝歌群、さらに滝壺探検説話がその主要なるものと思われる。
史跡と坂のまち・神戸散歩  神戸市発行
『布引の滝と文学』著:神戸大学名誉教授 野中春水  ヨリ